2022年1月9日日曜日

自由詩形式ってたいしたもんだと思うよ


 

ひょんなことから

自由詩形式を使ってみることになって

だんだん使い慣れてきて

なぁんとなく使い続けてくると

なぁんにも書く必要なんてないのに

なんか途中で止めちゃうのももったいない気になって

書き続けているだけなんだけど

 

現代詩ってやつとか

詩人ってやつに対して

ぼくほど徹底した敵もいないものだから

なんか座りが悪いなぁと

ときどき思っちゃったりもする

 

詩人ってやつ

ほんと

気味が悪いんだぜ

いっしょにいると運気が落ちるような

うすら寂しい感じのやつか

あるいは団塊の世代みたいなダサイやつか

どこかの先生みたいな

茶色っぽい系のジャケット着ているやつなんだ

たいてい

 

そうして

奇妙なほど仲良しクラブになっていて

歳が進むとお達者クラブになってきて

杖なんかだんだんつくようになっちゃって

ベレー帽なんか被っちゃってさ

大久保清してくるの

 

なにかというと

『現代詩手帖』に載ったとか

そこに出ていた何何さんのなんとかは・・・とか

そんな話になるんだけど

『現代詩手帖』っていったら

ぼくはル・クレジオを特集した号と

吉増剛造を特集した号しか買ったことがなくて

それらにしても特集記事だけ読んで

あとのページはつまらな過ぎてまったく見なかったくらいで

やっぱり世界が違い過ぎるんだね


雑誌といえば

『遊』はほとんど読んでいたし

『エピステーメ』もずいぶん読んだし

伊丹十三の『モノンクル』とか

1980年代の『マリ・クレール』もけっこう見たし

近年なら『ブルータス』の

映画特集号だけは見るんだけど

触りもしないなぁ

『現代詩手帖』って

たぶん

もう20年ほどは

触っていないんじゃないかと思うな

 

そういうやつが

惰性からでも

性懲りもなく使い続けているんだから

自由詩形式って

たいしたもんだと思うよ






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