「問題は、ことばとオレとどっちが主人か、ってことだ」
ハンプティ・ダンプティ byルイス・キャロル
ことばを使う時には
つねに差し送るべき宛先があり
人間としての他人が仮に名宛て人として存在していなくても
ことばはおのずと
それを受けとるべき他人を作り上げる
したがって
ことばを発したり
記したりしているかぎり
ヒトの意識が孤絶することはあり得ない
他人なきたったひとりの状態を経験することは
なんらかのかたちで言語活動が続いているかぎり
絶対にあり得ない
しかも
内的にも言語活動がなければ
外界を認知することは一切できなくなり
情報の把握も理解も利用もできなくなるので
ヒトが人間であるかぎり言語活動が消滅することはない
言語を絶した体験とか
言語と異なったレベルの宗教体験とか
そういう話はナンセンスで
すでに「言語を絶した体験」と言っている時点で
言語活動に絡めとられている
(というのも
(言語は本質ではないし
(本質を把握することさえできず
(指し示すことしかできない活動なので
(「言語を絶した体験」という指し示しは充分に
(言語活動となり得ているから
ハンプティ・ダンプティは
「問題は、ことばとオレとどっちが主人か、ってことだ」
と言っているが
これこそ究極の不条理な問いである
そもそも「オレ」もことばでしかないので
この問いは問いとしてはじめから成立しない
「オレ」といかに声高に叫ぼうとも
「オレ」と呼ぶことで指し示したいものには
決して行き着くことはできない
いかなる実体とも乖離したままで
永遠になににも行き着かず
またなににも根付くこともなしに
ことばはただ空回りする
古典主義のことばであろうと
ロマン主義のことばであろうと
写実主義的な装いを必死でしたことばであろうと
自然主義的なそれであろうと
ことばはどれも空回りしかしない
ヒトはどこにも行き着くことなく
どこにも根を下ろすこともなく
どこまで行っても空無な虚夢でしかない
はじめから答えは出ているのに
人類などという
空回りの虚夢を
ただ見続けている
しかも
見続けている主体も
あった試しがない
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