2024年12月20日金曜日

ブッダの肛門


  

 

禅の話では

「乾屎橛」というのが

ときどき出てくる

 

大便をした後に

尻を拭うためのヘラだと

昔は言われ

「糞掻きべら」とも呼ばれて

へえ

どんなものだろうか?

寺で修行していない人間としては

想像したりした

 

現代では

いろいろな註を見ると

へらのことではなく

からからに乾いた棒状の糞

と解されているらしい

 

下品に聞こえるような言葉も

ふんだんに

混ぜて

奇をてらうように

教えを爆発させる禅師ならではの

用語のひとつである

 

それはそうとして

よく思うのだが

道元も

ブッダも

トイレットペーパーもなければ

ウォシュレットもない昔

大便の後

肛門をどう洗ったのだろう?

どう拭いたのだろう?

 

ブッダの肛門など

得もいわれぬ

天上的な芳香がしたのだろうか?

 

道元のほうは

けっこう便秘気味だったり

あるいは

下痢気味じゃ

なかったのかな?

 

そんなことを思い出すと

よくもまあ

というふうに

空海の肛門の臭いとか

法然の肛門の臭いとか

日蓮の肛門の臭いとか

親鸞の肛門の臭いとか

いろいろ思われ

あやしうこそものぐるほしけれ

となっていきます

じゃ

 




街っていいなと


 

 

新宿駅

新南口

NEWoMan

 

ニュウマン

と読ませるらしいが

ちょっと律儀に

ぎこちなく読めば

ニューオマン

である

 

ローマ字ふうに

馬鹿正直に読めば

ネヲマン

 

どっちで読んでも

ヘン

 

ニュウマン

とは

読めないだろ

とにかく

 

ともかく

 

その

NEWoMan

Dean & DeLuca

に入って

コーヒーを飲み

マフィンを食べた

 

けっこう

値が張るので

驚いた

 

紀伊國屋書店の洋書売り場で

大目に

買うつもりだったので

ほんの

ちょっとだけ

食べておこうと思った

わけで

 

コーヒーは

炭の味がした

 

特別なのかしら?

 

マフィンは

ブルーベリーたっぷりのやつ

 

それに

ラズベリーと

ピスタチオのやつ

 

ブルーベリーたっぷりのやつ

うまかったな

 

大きなテーブルで

まわりの人たちの話や

動きを

受けとめながら

ゆっくり食べ

ゆっくり飲んだ

 

外国人の観光客が

あちこちに座っていて

日本人の客も

ちょっと変わった感じのひとが

後から

後から

出たり入ったり

 

ランドセルを背負った

小さな男の子も

飛行機になったつもりか

店内を

ぐるぐる

旋回していたけれど

なんだろうね

あれ?

 

Dean & DeLuca

に入って

食べたのも

はじめてだったが

NEWoMan

というところの

店を使うのも

せいぜい

二度目ぐらい

 

でも

けっこう

面白かったし

楽しかったし

感じよかったし

 

思った

 

街っていいな

 

街のたのしみ

って

あるな

 

NEWoMan

Dean & DeLuca

に入って

ひとり

コーヒーを飲んで

マフィンを食べただけ

 

でも

けっこう

面白かったし

楽しかったし

感じよかったし

 

思った

 

街っていいな

 

 





後から後から押し寄せ続けるために

 


 

 

これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

 

 中原中也 「帰郷」

 

 


 

 

中原中也の詩は

中学生の頃から好きだったが

ときどき

俗なリズムになるところや

小林秀雄に恋人を取られた有名な話や

酔っ払うと

いっしょにいる人を急に拳で突いて

「中原サンのお突きを見たか!」

などという

乱暴なところもあったのを知っていたので

いわゆる詩人サンの典型で

ろくに物事を考えられないし

文章など書けないのだろうと思い込んでいたが

「古本屋」という文章を読んでからは

彼がふつうに文章が書けたことに気づいて

中原中也のイメージを

頭のなかで再編成し直したものだった

 

こんな文章である

 

 

…………………………………………

 

古本屋    中原中也


   夕飯を終へると、彼はがつかりしたといつた風に夕空を眺めながら、妻楊子を使ひはじめた。やがて使ひ終つてその妻楊子を彼の前にある灰皿の中に放つた時、フツと彼は彼の死んだ父親を思ひだした、その放る時の手付や気分やが、我ながら父親そつくりだつたやうな気がした。続いて、「俺も齢をとつたな……」と、さう思つた。
 それから彼は夕刊をみながら、煙草を吹かすのであつた。
 年来の習慣で、彼は夕飯を終へると散歩に出掛けるか誰か知人を訪問するかしなければ気が済まないのであつた。しかし今晩は、出掛けるために電車賃が一銭もないのであつた。彼はズツと離れた郊外にゐたし、彼の友人や知人はみんな市内やまた他の方面の郊外にゐたので、彼は電車賃がないとなれば、誰かが遊びに来るのを待つてゐて、遊びに来た者から借りるか、それとも本を売るかしなければならないのだつた。
 もうそろそろ空にも昼の明りが消えて了はうとしてゐて、電燈をめがけて飛んでくる虫も増していつた。
 七時半まで誰か来ないものかと待つてゐたが誰も来なかつた。そこで彼は起ち上つて、室の隅に行つて、原稿紙の反古や本や雑誌の堆の中を探しはじめた。読んでしまつた本が二冊ばかり出て来た時に、「五十銭にはなるだらう」と呟いた。
 それから約三十分の後には、彼は中野の通りを歩いてゐた。新しく出来た六間道路とその辺の者が呼んでゐる通りには、まだギャレッヂと雑誌屋と玉突場とがあるきりだつた。そのほか寿司の屋台が出てゐる日があり、今日はそれは見えなかつたが、四五本の柱にトタン屋根を張つた、一時拵への氷店が出来てゐた。長さ二町ばかりの、その暗い湿つぽい通りに、今挙げたホンの三四軒の店屋が所々にあるのは、まるで蛍でもゐるやうな感じだつた。
 空には、晴れた空の一部分に黒い濃い雲形定規のやうな雲があつて、一寸欠け初めたばかりの月が、みえたり隠くれたり、可なり威勢よく渡れ亙つてゆくのが見られた。と、心持寒い風が、彼のその帽子を被つてない頭を撫でてゆくのだつた。
 その通りを行き切つて、明るい旧通りへ出ると、そこから直ぐと近くにある、彼が三年前に屡々買つたり売つたりしてゐた古本屋に、チヨツと寄つてみようかといふ気が起つた。
「今晩は」と彼は云つた。
「あゝ、お珍しい……ま、お這入んなさい。」と親爺が云つた。「ゐツひ、ひひひ。近頃はどちらにお住ひで。どうです、安宅さん、みたところお元気で、御景気も好いやうですが……」
 彼が茫然して直ぐに返事をしないと、親爺は急に笑顔をやめた。そしてゐざるやうにして坐布団を取ると、それを上り口に置いた。
「小父さんの方は繁盛ですか。」
「いやいや、もう安宅さん……わたしの方は商売上つたりで、もうずつとくひこみですあ。」云ひながら彼(一字不明)その面積の広い赫ら顔をシカめて、その前で手を振るのだつた。「もう駄目です、この不景気にはキリがありません。そのとどまる所を知らず――といふところです、をつホホホホ……」そして彼が上り口に腰掛けようとするのを見ると、「ま、まあ、お上んなさい」と云つた。
 彼は今しがた彼の家を出掛ける時に、行かうと決めた友人の所へ、行くのならばぐづぐづしてはをれない時刻だと思ひながら、上り込んだ。
 蚊ふすべをするため、ジヨチウ菊を燃したばかりだといふので、部屋の中には煙が残つてゐた。近所では、日蓮宗の信者達が集つて、お大名を称へてゐる女の疳高い声や睡さうな男の声がしてゐた。

 

 

…………………………………………

 

 

おそらく

小説に仕立てようとして

書きはじめたものだったのだろう

古本屋の親爺を

なかなか印象深く描き出しはじめている

 

詩歌を書く人たちのつねで

書きたい形式と

試したい言葉の組み合わせや組み替えが

中原中也の頭にも

たえず押し寄せ続けていただろう

そのために

一定のトーンを保たせて長く続ける必要のある散文は

どうしても中断せざるをえなくなる

散文が書けないのではなく

まだ書かれないままになっている詩歌や

言葉の群れや

言葉の組み合わせや

終わりのない組み替え実験が

後から後から押し寄せ続けるために

ひとつの散文にかまけていられなくなるのだ

詩歌を書く人たちでないと

絶対にわからない苦しみである

 

詩歌は

書き手が一定の年齢に達して

思想の取り込みや沸騰と

エネルギーとなる感情のそれへの混入とが

やや沈静化してきた場合

グッと作られなくなっていく傾向がある

中原中也ももっと長生きしていれば

そういう年齢を迎えて

落ち着いて

ひとつの散文に取り組むこともできたかもしれない

きっとできただろう

と思わされるだけの可能性が

この文章にはある






2024年12月19日木曜日

ネスカフェの空瓶に湧かしたお湯を入れてきて


  

 

北極や南極を探検したアムンゼンには

子どもの頃

ずいぶんとあこがれた

 

子どものアムンゼンは

極地の寒さに耐えうる体を作ろうと

真冬でも寝室の窓を開けていた

子どもたちを奮い立たせる有名な話だが

これをもろに真に受けて

ぼくも冬の窓を開けて勉強した

 

ノルウェーのアムンゼンと違い

関東地方の冬の寒さなど

比べものにならないほど甘いが

それでも机のわきの窓を開けると

体や腰などはいいとしても

手指はずいぶんと凍える

鉛筆も持てなくなったり

ページも捲りづらくなる

そこでネスカフェの空瓶に

湧かしたお湯を入れてきて

よく瓶を握ってかじかみを凌いだ

 

こんな子どもっぽい試みのおかげで

寒さにずいぶん強くなった…

などとはまったく思わないけれど

気温が4度や5度ぐらいなら

シャツに薄いジャンパーだけで

寒がらずに平気で出かけるのだから

アムンゼン鍛錬もちょっとは

効き目があったのかもしれない

 

上には上があって

極寒のチベットの密教修行僧は

寒い空気の中でシーツ一枚を巻いて

平気で眠りに就くのだそうである

そのぐらいできなければ

とてもではないが悟りには達し得ない

もっともこれには秘密があって

体温で膨らむと布の中は暖かいのだ

もちろん羽布団や防寒繊維のようにはいかないが

それでもじつはけっこう暖かいらしいと

実地で試してきた人たちからの話で

想像してみたことはある

 

 

 



萩原朔太郎の「悲しい新宿」

 

 


 

新宿を初めて見た時、

田圃の中に建設された、一夜作りの大都會を見るやうな氣がした。

周圍は眞闇の田舍道で、田圃の中に蛙が鳴いてる。

そんな荒寥とした曠野の中に、

五階七階のビルヂングがそびえ立つて、

悲しい田舍の花火のやうに、赤や青やのネオンサインが點つて居る。

さうして眞黒の群衆が、何十萬とも數知れずに押し合ひながら、

お玉杓子のやうに行列して居る。

悲しい市街の風景である。

1934年の新宿について

萩原朔太郎が

こう語っている

 

「一夜作りの大都會を見るやうな氣がした」とは

うまく言っているな

と思う

 

今の新宿にも

こんな雰囲気は消えずに漂っていて

それを感じられるか

感じられずに

ただ

きらびやかな都会と見るか

ひとりひとりの人生は

ここで

大きく別れるように感じる

 

ただ

きらびやかな都会と見るひとが

浅薄で

むなしい生き方をしている

とも思わない

そのほうが

どこまで行っても

浮薄でむなしくしか廻らない

この世では

いいかもしれない

幸せかもしれない

 

この文

萩原朔太郎の「悲しい新宿」は名文で

やはり

詩歌だけのひとでは

なかったのが

読んでいてよくわかる

 

詩人も歌人も俳人も

独特の様式を演じつつ書くので

散文家たちや

読むだけの一般人たちのほうから見れば

どこか不自由な

偏狭な

かたよった

ぎこちない日本語使いしかできない人たちのように

見えることもあるが

たいていは

文を書かせれば随筆や小説程度は

けっこうすらすらと書けるひとたちである

韻文の様式を

わざわざ背負い込んだりして

ご苦労なことだと思わされることも

しばしば

ある

 

朔太郎に添いながら

彼の時代の

いや

新宿の永遠のさびしさや悲しさを

もう少し

見ておこう


だが慣れるにしたがつて、

だんだんかうした新宿が嫌ひになつた。

新宿の數多いビルヂングは、何かの張子細工のやうに見えるし、

アスハルトの街路の上を無限に續く肥料車が行列して居る。

歩いてる人間まで田舍臭く薄ぎたない。

新宿ほどにも人出が多くて、

新宿ほどにも非近代的な所はなからう。

昔私が子供の時、新宿は街道筋の宿場であつて、

白く埃つぽい田舍の街路が續いて居た。

道の兩側に女郎屋が竝び、子供心の好奇心で覗いて歩いた。

その女郎屋の印象は、私の故郷上州で唄ふ盆踊りの歌

「鈴木主水といふ侍は、女房子供のあるその中で、

今日も明日もと女郎買ひばかり。」といふ歌の

田舍めいた侘しい旋律を思ひ出させた。

そんな田舍臭い百姓歌の主人公が、

灯ともし頃に羽織をきて、

新宿の宿場を漂泊して居るやうな氣がした。

そしてこの侘しい印象は、ネオンサインの輝く今の新宿にも、

不思議に依然として殘されて居るのである。


新宿の或る居酒屋で、商人たちの話を聞いて悲しくなつた。

皆が口をそろへて言つてることは、

百貨店の繁榮が小賣商人を餓死させると言ふことだつた。

少し醉の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて來た連中は、

○○や○○等の百貨店を燒打ちして、

すべての高層建築を新宿から一掃しろと主張して居る。

それから最後の結論として、皆が一緒に歎息したことは、

昔の馬グソ臭い新宿情趣が、

近代文明の爲に次第に廢滅して行くといふことだつた。

蓄音機はのべつに浪花節をかけ通して居た。

私は妙に悲しくなつて、酒も飮まずに出てしまつた。

あのビルヂングの林立する新宿の町々に、

かうした多くの人物が生棲してゐることを考へ、

都會の隅々に吹きめぐる秋風の蕭條といふ響を聞いた。

  新宿で好きなのは、

あの淀橋から煙草工場の方へ出る青梅街道の通である。

停車場のガードをくぐつて坂を登ると、

暗い煤ぼけた古道具や、安物の足袋など店に竝べた、

昔の宿場そつくりの町がある。

街路は冬のやうに白つちやけて、

昔ながらの大道店が、

ガマの油や、オツトセイや、古着類や、縞蛇や、

得體のわからぬ壞れた金物類などを賣つてる。

歩いてゐる人たちも、一樣に皆黒いトンビを着て、

田舍者の煤ぼけた樣子をして居る。

秋の日の侘しく散らばふ青梅街道。

此處には昔ながらの新宿が現存して居る。

しかもガードを一つ距てて、

淀橋の向ふに二幸や三越のビルヂングが壘立し、

空には青い廣告風船があがつて居る。

何といふ悲しい景色だらう。

新宿については

わたしも

伊勢丹しかめぼしいものがない時代の

東口の光景を見ているし

廃止作業中の淀橋浄水場の風景も眺めたことがある

 

朔太郎が描いているのは

もちろんそれよりもはるかに古い新宿だが

彼の文章から思うかぎり

その時代には

つくづく

生まれていなくてよかったと感じる

 

日本の風景には

時代を問わず

底知れぬ哀しさやわびしさが沁みていて

わたしは嫌だが

それでもわたしがつき合ってきた時代のどれもが

浮薄ながらもわあわあ賑わっていて

それほど嫌な時代というものはなかった

 

ことのほか

重くわびしい時代を

繊細な神経で

日本語を抱えて

よくまあ

忍んで生きてくださったと

朔太郎さんのことを

思う