2024年12月18日水曜日

ただ空の名残のみぞ惜しき


 

 

『徒然草』の第二十段に

こうある

 

なにがしとかやいひし世捨人の、

「此の世のほだし持たらぬ身に、

ただ空の名残のみぞ惜しき」

といひしこそ、

誠にさも覚えぬべけれ。

 

雑駁に訳してみる

 

なんとかいう名の隠遁者が

この世に身をつなぎ止めるものもない身なのに

ただ「空のなごり」ばかりが惜しい

と言ったが

なるほど

そのとおりだと思われる

 

現代語訳のなかに

カッコをつけて

「空のなごり」と残しておいたところに

この段の核心はある

 

これをどう解するか

 

いくつか

手元の古語辞典にあたっても

仏教語としての「空」を示されるばかりで

あやまった曖昧な解釈に進んで

謎のままに終わるだろう

隠遁者の言ったことだから

仏教語の「空」を弄んだのだろうなどと

ろくな解釈にならない

 

『古今著聞集』十八の

 

万法はみな空なりといふ法問

 

のように

明解に用いてくれれば

困らないのだが

吉田兼好の「空」の用い方には

並々ならぬ歌人文人としてのひねりが

やはり効いている

 

ここのところについて

よき指針を得たと思ったのは

松尾聡博士の

古い高校生用解釈本を見た時である

松尾聡は

このあたりの部分を

「ただ自然の風物が私の身に残す余情だけが執着のたねだ」と訳し

このように注釈している

 

空とは四季の自然の風物をいうとする説にしたがう。「空の名残」は「自然の風物が移り去ったあとで、それを見、それを感じている人の心の中に残るその風物の幻影」をいうのであろう。なお「空」については、「四季折々の天空」「月」をいうとする説などがある。

 

このように解すると

ここに書かれた隠遁者のむこうに

西行の姿も彷彿として立つ

とはいえ

兼好がここに言及した世捨て人は

もちろん

西行ではなかっただろう

150年ほど前の破格の歌人を

「なにがしとかやいひし世捨人」などと

書くわけはないし

「いひしこそ」などと

敬語表現もなしに書くわけもない

 

それはともかく

「空の名残」を

「自然の風物が移り去ったあとで、

それを見、

それを感じている人の心の中に残るその風物の幻影」

と解するならば

自然の風物のうつりゆきを

やはり仏教的な「空」と見ていることになるわけで

あくまで

仏教観を通しての

自然現象やものの変化の見方が表明されていることになるが

それでいて

そんな「空」にだけは

こころ惹かれ続けてしまう

というところに

単なる仏教指南にはなってしまわない

兼好の筆の運びの味わいがある

 

ろくに古文も読み慣れず

古典文法さえ

あまりにいい加減にしか知らなかった

中学生の頃

それでも

わたしは日本の古文の魅力に取りつかれて

古典の注釈本をいつも携えて

学校へ行き帰りした

 

松尾聡博士の注釈本も持っていたが

『徒然草』はざっと読んだだけで

もっと好きだったのは『枕草子』と『平家物語』だった

 

『枕草子』のほうは

三谷栄一博士と伴久美博士の

「文法中心 全解枕草子」(有精堂)を持っていたが

これは分厚い本で

語釈や文法説明も詳しく

中学生には読みやすい本ではなかった

にもかかわらず

中学校に抱えていくのが嬉しくて

ろくに読み進めもしないのに

いつも手元に置いていた

 

『平家物語』は

当時どこの書店でも買えた

高橋貞一校訂の講談社文庫版上下巻を手に入れて

これもまた

年がら年中バッグに入れて

あちこちに持って出た

脚注や補注はあるものの

現代語訳は付いていないので

中学生には

やはりわからないところだらけだが

ページをめくるたびに

こころの踊る貴重な本だった

 

今から30年近く前になろうか

大学の土曜日の夜間の授業を担当した時

平家物語の研究者と毎週顔をあわせ

時々おしゃべりをしたが

中学生時代に『平家物語』の原文を好んだことを言ったら

どの版でしたか?と聞かれ

古い講談社文庫でしたと答えたら

「ああ、あれは研究者にはいい版だったんですよ

もう絶版になっちゃったけれど」

と教えられた

 

ネットで調べ直してみると

「元和9年刊行の片仮名交り附訓12行整版本を底本に、

平家諸本研究の権威・高橋貞一教授による厳訂本。

適切簡明な脚注・補注、全文にわたる振り仮名など、

読みやすい古典平家物語」

とあって

知らず知らず

いい版に出会っていたのかと

今さらながらに

文芸の小径小径への

見えないところからのみちびきがあったらしいことへ

感謝の思いを

抱かずにおれない






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