人生は祭りだ。
みんなで生きよう。
私にはそれしか言えない。
フェデリコ・フェリーニ 『8 1/2』
若いころに短歌結社に属していた
二〇年ほどはいた
いやで
いやで
たまらなかったのは
なにを歌っても
限界づけ
限定
欠如
悲しさ
哀しさ
寂しさ
虚しさ
などの方向に持っていって歌い収めるのが
よし
とされていたことである
手放しのよろこび
全開の楽しさ
充溢感
などは浅薄とされていて
よろこびの裏には
しのびよる空虚がなければならなかったし
楽しさは悲哀の重奏低音を
かならず伴っていなければならなかった
充溢感はつかの間でなければならなかった
悲哀好き
滅亡好きの
日本型伝統文学であるとはいえ
そうした
引かれ者の小唄的詩学の演出傾向に
わたくしは疑義を唱え
激しく反発した
どうせ衰微や
死や
個というものの滅びが来るのだから
いかなるよろこびも
楽しさも
充溢感も
悲哀や虚しさによって
裏打ちされていなければ真実味を欠く
というのが
日本的美意識におけるリアリズムのお作法なのだが
いくらリアリズムのお作法がそうだとしても
フィクショナリゼーションのお作法は
これっぽっちも
悲哀や虚しさによってなど裏打ちされていない
よろこびや
楽しさや
充溢感の表現をも要求してくる
わたくしが短歌美学を捨てたのは
わたくしの一回かぎりの人生を
まるごとフィクションとする方向へ
舵を切ったためだった
わたくしの事実や真実をすべて捨て去ることへ
飛び込んだためだった
もちろん
短歌にも悲哀裏打ち路線でないものがあり
道元禅師の
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪冴えて冷しかりけり
などは好例といえるし
このような方向へ
わたくしは進んで舵を切った
なににでもつねに悲哀や虚しさをふりかけ
いつでもネガティヴ調で歌うのを
断ち切って
おかげで
日本の凋落も
ガザの大虐殺も
どの国の政治の無限茶番ぶりも
裏政治のわがままぶりも
マスコミの虚偽祭りも
民衆のキチガイ踊りっぷりも
増えすぎたネズミの集団自殺のような
現代社会人の狂騒も
団扇の風音のように聞いていられる
禅が出てきたついでに
白雲禅師の言葉を思い出しておけば
不風流処也風流
(風流ならざる処もまた風流)
という精神を
ほぼ
自家薬籠中のものにすることで
悲哀や虚しさの感受を一切停止する方向へ
わたくしは向かった
『無門関』ならば
遊戯三昧
とまで言うだろうが
わたくしは
老子の言にしたがって
知足
と表明するに留めて
謙虚さを
装って
見せておく
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