2024年12月13日金曜日

ああ時間がこんなにはつきりと見える!

  

 

三好達治の『測量船』の中の散文詩『晝』は

あんまりおもしろくないもので

どんな仲だったかわからない「彼女」が

乗合馬車に乗って去っていく場面を

あんまりきれいに見えない

漢字仮名交じりの文字並べで

あんまり魅力的な効果を出さないで

書き進められていっていた

 

内容は三好達治の創作というより

『ボヴァリー夫人』あたりから借りた枠組みに

小説風な仄めかしを施して

散文詩にでっちあげたものかと思われる

 

日本近代の散文詩は

はじめのあたりは地味に

つまらなく書き出して

最後でパアッと

詩的な開花をさせることが多いが

この『晝』の場合もそんなところがあって

 

ふつと、まるでみんなが、馭者も馬も、たよりない鳥のやうな運命に思はれる。さやうなら、さやうなら、彼女の部屋の水色の窓は、靜かに殘されて開いてゐる。
 河原に沿うて、並木のある畑の中の街道を、馬車はもう遠く山襞に隱れてしまふた。そして、それはもうすぐ、あのここからは見えない白い橋を、その橋板を朗らかに轟かせて、風の中を渡つて走るだらう。すべてが靑く澄み渡つた正午だ。そして、私の前を白い矮鷄(ちゃぼ)の一列が石垣にそつて步いてゐる。ああ時間がこんなにはつきりと見える! 私は侘しくて、紅い林檎を買つた。

 

というふうに

「ああ時間がこんなにはつきりと見える!」

という文が爆発している

これは収穫といってよいだろう

日本の文芸の中でも

世界の文芸の中でも

「時間」を見えるものとして記した例は少ないし

「こんなにはつきりと見える!」とは

世界的な詩達成に数えられるべき快挙だ








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