上野止まりとなる常磐線の列車で
遅く東京に帰ってきた
閑散とした後部車両に乗ってきたので
終点の上野に着くと
ホーム階段のあるところまで
けっこう長く歩いて行かなければならない
暗く味気ないホームを歩くより
車両から車両へ
行けるところまで歩いたほうが
明るい雰囲気でよい
どんどんと車両の中を歩いて行くうちに
今の時代ならではの
とあることに気づいた
読み終えられた新聞や雑誌が
どの網棚の上にも
まるで見当たらないのだ
新聞や雑誌は
ひと昔前なら必ず残されていて
電車が終点に着くたびに
それらを回収してまわるクズ屋もいた
進めど進めど
どの網棚にも見当たらない
現代の乗客たちが
しっかりと片づけをするようになったのではなく
新聞や雑誌とともに電車の小旅をするのが激減したことが
こんな車内風景を作り出したのだろう
きれいさっぱりと
なにも残されていない網棚を見て歩き続けるうち
ひと昔前の電車の網棚の光景のさまざまが
ふいに湧き上がった火災の煙のように
後から後から
猛然と意識に蘇ってきた
それらはすでに失われた時代の像であり
貴重でなどまったくないものの
二度と見ることのないであろう時間の顔であった
まったく
要らなくなった新聞や雑誌を
網棚にこんなふうに投げ出して下車していくなんて
しょうもない乗客たちだ
などと思いながら
何度電車を降りたかわからないが
そんな思いを抱く機会も
そんな思いのもとになる光景も
いつのまにか
さっぱり消滅してしまっていたのだ!
これも
ひとつの喪失のようなものか?
こういう喪失もあるのか?
あれらの過去の
網棚たちにも去って行かれてしまうのか?
そうして
ただただ透明な
これといって特別なところのない目となって
やけにくっきりとした
てらてらしてさえいる現代の網棚を
こんなふうに眺めていくのか?
そう思いながら
この場の光景とはまったく脈絡ないようながら
切実に共鳴させられるような
俵万智の一首を思い出していた
愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人
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