2024年12月13日金曜日

天使の徹底した不誠実さ

 

 

 

生について考える者は

時間について考えることになり

当然ながら

「いま」について考えることになる

 

バタイユやユイスマンスの訳者であり

晩年までランボーやロートレアモンにこだわり続けた

フランス文学者の出口裕弘が

「いま」についての悟りのようなものを

こう書いている

 

私たちは、「いま」という最前線を、光速で走っている。把握不能な「いま」を、光速で突っ走るこの私たち自身が構成している、といってもいい。しかもその「いま」は、私なら私が蜘蛛膜下出血か何かで一瞬の死を遂げれば、私にとってその瞬間に固定する。 全宇宙が光速で「いま」を構成しつつ走っているとき、私だけは無時間の世界に入り、不動の者となるのだ。いつも考えていることなのだが、この日、駿河台下交差点で、まだ新聞が読めるほどの明るさなのに、ヘッド・ライトを点けてこちらへ殺到してくる車の群れを見ながら、頭の中で小さな音でもしたかのようにして、私は納得した。「いま」とは、深淵だ。ただし、落ちるいとまもないほど急速に過ぎ去ってゆく深淵だ、という風に。*

 

おそらく「いま」は

死によって「その瞬間に固定する」ことはないであろう

とわたしは推測するのだが

そうした不一致があるにせよ

「いま」と「深淵」をめぐるこの思索の瞬間には魅力がある

 

出口裕弘ははるか年上だったが

かつて外苑前にあったバー「ハウル」の漆黒のビルの

最上階のカフェ「詩人の血」の別室で

それこそ膝を交えて

ランボーやロートレアモンについて聞かされたことがあった

彼は八十歳近かったはずだが

そんな歳になってもランボーやロートレアモンという

早世の天才たちの作品にこだわり続けていた

 

詩人や詩的言語が

政治家の言葉のようにどれほど無責任なものか

どれほど捏造された多面体で

プリズムの乱反射のみを意図されて作られるものか

わたしはよく知っているので

ランボーやロートレアモンの詩句の意味にこだわり続ける

出口裕弘の執心が

きわめて散文家的な誠実なものであると感じた

散文家は往々にして

自分たちが抱え持つ誠実さを

詩人や詩的言語にも見出そうとしてしまう

ヘンリー・ミラーは「悪魔のように誠実」と書いたが

散文家たちはいわば

“天使の徹底した不誠実さ”を知らないのだ

 

出口の浦和高校時代の同級生だった畏友の澁澤龍彦が

「ランボーのどこがいいのか、全くわからない」

と言っていたというエピソードなどは

カフェ「詩人の血」のこの別室で聞かされたものだった

“天使の徹底した不誠実さ”を知っていた渋澤龍彦ならではの

詩的なものや詩人への真っ当な防衛手段と思われた

 

 

 

 

*出口裕弘『御茶ノ水暮色』。『ペンギンが喧嘩した日』(筑摩書房、1990)所収。神保町やお茶の水の、とりわけ、かつては文化学院があり、いまもアテネ・フランセのあるマロニエ通りの夕刻を記した文章で、東京の人間には味わい深い。





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