思い出す
と
ぼくらは平気で口するのだけれど
ぼくらが思い出すのか
思い出がぼくらを仮設させているのか
微妙なところだ
むろん
答えは出ているのだけれど
この世でわたしは
音楽を聴いた
美術を見た
本をめくった
草に触れ
木肌に触れ
水に触れ
なにに触れていなくとも
空気に包まれていた
この世でわたしは
肉体というものを経験し続けた
無数の細胞から成り
細胞も無数の元素から成り
元素は分子から成り
分子は原子から成り
原子は素粒子から成り
素粒子は波動から成り
まるでそれらは
わたしそのものででもあるかのように
つねに謀ってくれていた
なにより
この世でわたしは
精神とか霊とか魂というものを
肉体と重ねて経験し続けた
それらのどれかと
自己同一化したがる思想が
地上には蔓延しているが
それらのどれともわたしが違うのを
経験によって
わたしは確認した
だからわたしは
精神とも霊とも魂とも肉体とも
容易に別れることができる
そして
わたしというこの言葉よ!
おまえこそが
もっともわたしから遠いもの
言語界でのみ使われる
発話者の印となる仮面よ!
日本語界では
容易にぼくになり
おれになり
あたしになり
おいらになり
わてになり
あっしになり
すぐにまたわたしに豹変してみせる
もっとも信頼できない
不在証明よ!
ガザで殺されなかった人たちだけが
2025年を
迎えられそうだったが
駆け込むようにして
百何十人かは
務安国際空港に散っていった
でも
大丈夫
ガザで死んでいく人たちから
たくみに
クレバーに
目を逸らし続ける人たちは
まだ
数えきれないほど繁殖しているから
地上の闇は
深く澱み続けて
われわれの心地よさが奪われることなど
あり得るわけがない
by サタン他悪魔界一同
どうして
映画に
音楽がついているのか?
と
ある時
疑問に思った
そうして
すぐに
気づいた
ストーリーがつまらないからだ
と
ストーリーというものは
みんな
つまらない
と
このようにも
気づいた
映像もつまらないからだ
と
映像というものは
みんな
つまらない
と
くわえて
思った
どうして
本には
音楽がついていないのか?
と
これについて
は
もちろん
気づいていた
本は
つまらなくない
からだ
と
そうして
確認し直した
ストーリーがあるかのような本もあるが
あれは
ストーリーではなく
それがストーリーに見えてしまいそうな時は
読む側が
粗雑な感性になっている時か
あらゆる分断情報を
特定のパターンに連結させて眺める悪癖に陥っているからだ
と
禅の話では
「乾屎橛」というのが
ときどき出てくる
大便をした後に
尻を拭うためのヘラだと
昔は言われ
「糞掻きべら」とも呼ばれて
へえ
どんなものだろうか?
と
寺で修行していない人間としては
想像したりした
現代では
いろいろな註を見ると
へらのことではなく
からからに乾いた棒状の糞
と解されているらしい
下品に聞こえるような言葉も
ふんだんに
混ぜて
奇をてらうように
教えを爆発させる禅師ならではの
用語のひとつである
それはそうとして
よく思うのだが
道元も
ブッダも
トイレットペーパーもなければ
ウォシュレットもない昔
大便の後
肛門をどう洗ったのだろう?
どう拭いたのだろう?
ブッダの肛門など
得もいわれぬ
天上的な芳香がしたのだろうか?
道元のほうは
けっこう便秘気味だったり
あるいは
下痢気味じゃ
なかったのかな?
そんなことを思い出すと
よくもまあ
というふうに
空海の肛門の臭いとか
法然の肛門の臭いとか
日蓮の肛門の臭いとか
親鸞の肛門の臭いとか
いろいろ思われ
あやしうこそものぐるほしけれ
となっていきます
の
じゃ
新宿駅
新南口
NEWoMan
ニュウマン
と読ませるらしいが
ちょっと律儀に
ぎこちなく読めば
ニューオマン
である
ローマ字ふうに
馬鹿正直に読めば
ネヲマン
どっちで読んでも
ヘン
ニュウマン
とは
読めないだろ
とにかく
で
ともかく
その
NEWoMan
の
Dean & DeLuca
に入って
コーヒーを飲み
マフィンを食べた
けっこう
値が張るので
驚いた
紀伊國屋書店の洋書売り場で
大目に
買うつもりだったので
ほんの
ちょっとだけ
食べておこうと思った
わけで
コーヒーは
炭の味がした
特別なのかしら?
マフィンは
ブルーベリーたっぷりのやつ
それに
ラズベリーと
ピスタチオのやつ
ブルーベリーたっぷりのやつ
は
うまかったな
大きなテーブルで
まわりの人たちの話や
動きを
受けとめながら
ゆっくり食べ
ゆっくり飲んだ
外国人の観光客が
あちこちに座っていて
日本人の客も
ちょっと変わった感じのひとが
後から
後から
出たり入ったり
ランドセルを背負った
小さな男の子も
飛行機になったつもりか
店内を
ぐるぐる
旋回していたけれど
なんだろうね
あれ?
Dean & DeLuca
に入って
食べたのも
はじめてだったが
NEWoMan
というところの
店を使うのも
せいぜい
二度目ぐらい
でも
けっこう
面白かったし
楽しかったし
感じよかったし
思った
街っていいな
と
街のたのしみ
って
あるな
と
NEWoMan
の
Dean & DeLuca
に入って
ひとり
コーヒーを飲んで
マフィンを食べただけ
でも
けっこう
面白かったし
楽しかったし
感じよかったし
思った
街っていいな
と
これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
年増婦の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ
中原中也 「帰郷」
中原中也の詩は
中学生の頃から好きだったが
ときどき
俗なリズムになるところや
小林秀雄に恋人を取られた有名な話や
酔っ払うと
いっしょにいる人を急に拳で突いて
「中原サンのお突きを見たか!」
などという
乱暴なところもあったのを知っていたので
いわゆる詩人サンの典型で
ろくに物事を考えられないし
文章など書けないのだろうと思い込んでいたが
「古本屋」という文章を読んでからは
彼がふつうに文章が書けたことに気づいて
中原中也のイメージを
頭のなかで再編成し直したものだった
こんな文章である
…………………………………………
古本屋 中原中也
夕飯を終へると、
それから彼は夕刊をみながら、煙草を吹かすのであつた。
年来の習慣で、
もうそろそろ空にも昼の明りが消えて了はうとしてゐて、
七時半まで誰か来ないものかと待つてゐたが誰も来なかつた。
それから約三十分の後には、彼は中野の通りを歩いてゐた。
空には、
その通りを行き切つて、明るい旧通りへ出ると、
「今晩は」と彼は云つた。
「あゝ、お珍しい……ま、お這入んなさい。」と親爺が云つた。「
彼が茫然して直ぐに返事をしないと、親爺は急に笑顔をやめた。
「小父さんの方は繁盛ですか。」
「いやいや、もう安宅さん……わたしの方は商売上つたりで、
彼は今しがた彼の家を出掛ける時に、行かうと決めた友人の所へ、
蚊ふすべをするため、ジヨチウ菊を燃したばかりだといふので、
…………………………………………
おそらく
小説に仕立てようとして
書きはじめたものだったのだろう
古本屋の親爺を
なかなか印象深く描き出しはじめている
詩歌を書く人たちのつねで
書きたい形式と
試したい言葉の組み合わせや組み替えが
中原中也の頭にも
たえず押し寄せ続けていただろう
そのために
一定のトーンを保たせて長く続ける必要のある散文は
どうしても中断せざるをえなくなる
散文が書けないのではなく
まだ書かれないままになっている詩歌や
言葉の群れや
言葉の組み合わせや
終わりのない組み替え実験が
後から後から押し寄せ続けるために
ひとつの散文にかまけていられなくなるのだ
詩歌を書く人たちでないと
絶対にわからない苦しみである
詩歌は
書き手が一定の年齢に達して
思想の取り込みや沸騰と
エネルギーとなる感情のそれへの混入とが
やや沈静化してきた場合
グッと作られなくなっていく傾向がある
中原中也ももっと長生きしていれば
そういう年齢を迎えて
落ち着いて
ひとつの散文に取り組むこともできたかもしれない
きっとできただろう
と思わされるだけの可能性が
この文章にはある
北極や南極を探検したアムンゼンには
子どもの頃
ずいぶんとあこがれた
子どものアムンゼンは
極地の寒さに耐えうる体を作ろうと
真冬でも寝室の窓を開けていた
子どもたちを奮い立たせる有名な話だが
これをもろに真に受けて
ぼくも冬の窓を開けて勉強した
ノルウェーのアムンゼンと違い
関東地方の冬の寒さなど
比べものにならないほど甘いが
それでも机のわきの窓を開けると
体や腰などはいいとしても
手指はずいぶんと凍える
鉛筆も持てなくなったり
ページも捲りづらくなる
そこでネスカフェの空瓶に
湧かしたお湯を入れてきて
よく瓶を握ってかじかみを凌いだ
こんな子どもっぽい試みのおかげで
寒さにずいぶん強くなった…
などとはまったく思わないけれど
気温が4度や5度ぐらいなら
シャツに薄いジャンパーだけで
寒がらずに平気で出かけるのだから
アムンゼン鍛錬もちょっとは
効き目があったのかもしれない
上には上があって
極寒のチベットの密教修行僧は
寒い空気の中でシーツ一枚を巻いて
平気で眠りに就くのだそうである
そのぐらいできなければ
とてもではないが悟りには達し得ない
もっともこれには秘密があって
体温で膨らむと布の中は暖かいのだ
もちろん羽布団や防寒繊維のようにはいかないが
それでもじつはけっこう暖かいらしいと
実地で試してきた人たちからの話で
想像してみたことはある