2017年10月20日金曜日

『シルヴィ、から』 46

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十二声) 3

   (承前)

 午前中は自由時間だった。午後はゲームがあるということだったので、その午前中の時間を、多くの人たちは外出もせず、特に疲れるようなことなどせず、グラウンドや卓球場で過ごした。
わたしはグラウンドを、本とスケッチブックとカメラを持って歩きまわり、この合宿所のいろいろな場所を記憶しようとし、また、記録した。
二時間ほどすると、そうしたことにも飽きてしまって、ある大樹の下のベンチに腰を下した。樹のまわりに輪のように造られているベンチで、そこでは風が、谷の水のようにわたしの肩を流れた。
 ぼんやりと、遠くの宿舎の建物や、ダンスの行われていた集会室の煉瓦造りの建物、体育館や食堂や礼拝堂を眺めたり、また、グラウンドの芝生の大きな広がりの上に点在している人たちに目を移したりしているところへ、どこからともなく、ふいに、三人の娘がやってきた。二人はわたしの両側にひとりずつ座り、ひとりはわたしの前に腰を下した。
 彼女たちはわたしに、ごくありきたりな、いろいろな質問をした。日本では学校でどんな勉強をするのか、とか、どんな科目が好きか、とか。そういう質問が済むと、わたしの左側に座った娘が、日本の言葉を少し教えてほしい、と言った。
「あなたのボーフレンドにでも、日本語でお別れを言うために?」
 とわたしは訊いた。
「そうじゃないの。わたし、べつに、特に親しくなった人って、いないの。ただ、日本語って、どんなのかしらと思って。ーーでも、この人には、ずいぶん仲良くなったお友だちがいるのよ」
 そう言って、わたしの前に腰を下していた娘を指した。
左側に座った娘がせがむので、わたしはノートを開き、日本語を英語と対照しながら、いくつか教えた。
一から十までの数を、何度もふたりでいっしょに声を出して、一、二、三、四…と教え、指を折りながらリズムを取ったりもした。そういう時には、他のふたりもいっしょに声を出した。
 言葉を教えながら、左側のその娘の目を見つめたり、彼女がノートを見ている間に、その顔や肩に流れ落ちるよく整った栗色の髪や、萌黄の清潔なワンピースなどを瞳の中に吸いながら、この娘が、穏やかでしおらしく、加えて、静かに湧き出るような美しさを持っていることに、わたしはようやく気がつくのだった。わたしが教えることをいちいち熱心にくり返す彼女の素直さに、わたしは特に好感を持った。
シルヴィの他にこういう人もいたのか、と思い、この娘が今、わたしの傍らにこのようにいてくれている幸せを感じ、気持ちが温かくなるようだった。

 突然、ひとりのべつの娘が歩いてきて、わたしたちの和を乱した。
その娘は、わたしに白いズック靴を差出すと、
「これにサインをして」
と言った。
 シルヴィといつも一緒にいる娘、ドゥニーズだった。
ごく一瞬のことだったが、わたしはドゥニーズを、この時はじめて、よく見つめた。
目の中に光が満ちているかのように虹彩が青いのを見て、わたしは少し驚いた。
肉づきのいい両頬には桃のように赤みが差し、シルヴィとは違って丸みを帯びた豊満な体は、今日は厚手の濃い青色のシャツで包まれていた。
差し出された靴にはすでに数人のサインが書かれていた。
どこに書こうかと考えながら、こういう靴に記念のサインをしてもらうという趣向に、わたしは感心していた。
サインを終えて手渡すと、ひとこと、
「ありがとう」
とだけ言って、ドゥニーズは離れていった。
わたしとともに、そこにいた娘たちにはどうしてサインを求めないのだろう、もうすでに書いてもらってしまっているのだろうか、とわたしは訝った。

 私の前に座っていた娘が立ち上がって、
「さあ、そろそろ行きましょうか」
 と、後のふたりに呼びかけた。
左側にいた娘は、わたしがドゥニーズの靴にサインをしている時からずっと、わたしのノートのあちらこちらを捲って、わたしの描いた素描画を見ていたが、その呼びかけに答えて顔を上げると、わたしの手にノートを返して立ち上がった。
 二人の娘はすでに歩き出しており、歩きながらわたしに、さようなら、と手を振った。
 その二人にこちらからも手を振り終えると、傍らで立ち止っていた萌黄の服の娘が、
「あなたの絵、なかなか上手だわ」
 と言って、微笑んだ。そして、やや口早に、
「さよなら」
と言ったかと思うと、軽く駆け出して、先の二人に追いついた。
そうして、こちらを振り向くと、歩きながら手を振り、微笑みを投げて寄越した。
程なく、彼女たちは三人とも集会室の向こうへ曲がって、姿を消した。
行ってしまった、と、これといった感慨もなく、わたしは思った。
肩のあたりに、ふいに涼風が蘇ったようだった。

(第二十二声 終わり)



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