2017年10月17日火曜日

『シルヴィ、から』 43

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第二十一声 シセル篇) 4


シセルはどうなるのか。もし、わたしが、より大きな器を求め始めたとしたら。
彼女はこの塔の下でいつまでも待っているだろうか。「信じてるわ、あなたはきっと帰ってくるわ」とでも言って、わたしに呪縛をかけるだろうか。
わたしは帰ってくるだろうか?
どこへ?
シセルのところへ?
この塔の下へ?
どうして、わたしはここへ帰って来なければいけないのだろう?
シセルがいるからか?
では、そのシセルとは一体なんなのだ?
どうして、わたしはシセルと暮らしているのか?
どうして、こんなところにわたしは留まっているのか?

シセルとはなにか?
わたしには考えねばならないことがある。
わたしとシセルの寝床は塔の下に掘られた大きな溝の中にあって、そこに入ると、ちょうど日本家屋の縁の下にもぐり込んだような具合だが、その中で、毎晩シセルの頭をわたしの胸の上に置いて、その髪の中へ指を挿し入れ髪を絡ませながら、わたしはその考え事をする。
シセルとはなにか?
この地でのわたしの伴侶。
妻?
そう呼んでもいいのかもしれない。
そして、わたしの最高の友。
もっとも愛する人。

わたしたちと同じように塔の下で寝に就く七人の娘たちは、この塔の下での共同の生活者で、わたしたちの友人だ。わたしたちの子供ではない。
だが、わたしたちはまだ若いから、やがては本当の子供も生まれるだろう。その子は、シセルの子であり、わたしの子となるだろう。わたしは父親となり、シセルは母親となる。わたしとシセルはいっそう緊密な関係になるだろう。
だが、本当のところは?
夫とか妻とか、父とか母とか子とかいう関係を外して考えると、一体、シセルやその子は、わたしにとってなにものであるのか?
また、シセルやその子の側から見たわたしとは、一体、なんなのだろうか?
わたしをやがて訪れるかもしれないなにか、いずれは起こるかもしれない何事かがやってくれば、すべては解決されるのだろうか?判然とするのだろうか?
シセルとは一体なんなのか?
わたしとはなんなのか?
わたしはどこから来て、どこへ行くのか?
どうしてこの地に留まることになったのか?

この草原、この塔の下の寝床の中で、入口から入ってくる雨の匂いを嗅ぎながら、この雨によって、わたしとシセルの仲がよりいっそう親密になるように感じるのだった。それは、夜の中で合わせているわたしたちの肌の親密さで量られ、確認されるようだった。
「幸せだ」とわたしは呟いた。
物憂げにシセルは顔を上げて、「わたしも」と呟いた。
シセルの息がわたしの鼻に届く。わたしは思いっきり息を吸って、シセルの吐いた息を胸に満たす。この、シセルの息が、わたしは好きだった。わたしが胸を満たすと、胸の上のシセルの頭が波の盛り上がりの上に乗った船のように持ち上がる。息をいっぺんに吐き出す。とたんに、彼女の頭も落ちる。
それは、肉を貫いて、わたしの胸のうちへ、生命の深みへと落ちていく。シセルの頭だけが、シセルだけが、わたしの奥深いところへと落ちていく。
胸を破かれ、貫かれて、わたしは残る。
いま少しの間、このままの姿でわたしは横たわっているだろう。やがて、わたしの幽霊が立ち上がり、どこへとも知れず道程を踏み始めるだろう。
わたしは満ち足りているし、幸福だ。
わたしはどこへ行く必要もない。
どこへも行きたくない。
どこかへ行くことを欲しているとすれば、それはわたしの幽霊が欲しているのだ。幽霊ででもなければ、その上、どこへ行くこともできないだろう。
行きたければ行くがいい。
わたしは残る。
わたしはここで十分に生きている。
わたしは幸福な魂だ。
わたしには妻がいる。
覚えておくがいい、それはシセルという名だ。
シセルというのが、わたしの妻だ。
さようなら、わたしよ。


(第二十一声 シセル篇 終わり)




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