2017年10月18日水曜日

『シルヴィ、から』 44

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十二声) 1


 ……不思議なことを語る声だったが、語り終えたようだ。彼が語っている間に、こちらではもう陽が昇ってしまった。

 今朝はいつになく冷え込んだ。まだ夏の半ばだというのに、まるで秋も盛りを過ぎる頃のような涼しさだった。
わたしは白い長袖のワイシャツを着ることにした。下には、落ち着いた印象の新しい紺のジーンズを穿くことにしたが、これだけではなにか物足りず、朝のうちは肌寒くもあったので、紺のカーディガンをワイシャツの上に引っ掛けることにした。
この服装で一日を過ごすつもりだった。こういう目立たない身なりは、単色を若々しく大胆に使った友人たちの鮮やかな身なりの中では、いささか奇異に映るかもしれない。なんて面白みのない地味な奴だろう、と見られるかもしれないが、わたしはむしろ、それを望んでいたのだ。
他のあらゆる人々が日常を離れ、自らの殻を破って浮かれている時に、わたしひとりは、彼らに対して、故意に日常的であろうとしたのだった。
カーディガンに袖を通した後、髪を梳かし、もう一度服装を確かめた。紺と白だけの今日の姿が、他ならぬわたし自身を冷静にさせるようだった。自分を抑えるために自らこういう装いを選んだのか、と思われた。
とにかくも、これで、今日は一日中、わたしは見られる側ではなく、見る側として過ごすことができるだろう。わたしの服装は、飾り気のなさのゆえに完璧だ。これは誰の注意をも惹かない。自分が見られているという意識のあの重さを逃れて、今日のわたしは、無味乾燥なただの観察者となることができるだろう。これこそわたしが望んでいたことではないか。……いや、本当にそうだっただろうか。

 朝食時には、この数日来座ることにしている同じ席に、今日も着いた。
わたしの隣りには、背の低いやや太った童顔の牧師が座り、これもまた、いつもの通りだった。
わたしたちは、もう馴染みであるといってよかった。
ウィンチェスターを歩いた時、この牧師がわたしたちをいろいろと案内してくれた。
ある建物に入った時など、内陣の壁に掛かっている大きな丸いテーブルについて長々と説明してくれた。彼によれば、そのテーブルに、かのアーサー王と円卓の騎士たちが着いたのだということだった。大丈夫ですか、わたしの説明がわかりますか、と彼は何度もわたしたちに聞いた。そのたびにわたしたちは「イエス」を連発し、説明の続きを促した。
ウィンチェスターの街の長い坂をだらだらと下りる帰りの道すがら、彼はわたしたち数人を小さなレストランに誘った。そこでお茶とショートブレッドを注文した。お茶はむろんミルクティーだが、このレストランで飲んだそれが、イギリス滞在中を通じて最も美味しいお茶だった。
「おや?」
と彼は、少しずり落ちた眼鏡を上げながら、わたしに言った。
「今朝のお茶はちょっと出過ぎているようだね。こりゃ、牛乳を少し多く入れなきゃだめかな」
 この彼の言葉が、ウィンチェスターのあのレストランから、ウィンクフィールドの合宿所の食堂へ、その片隅のテーブルへとわたしを連れ戻すのだった。
「ここで朝食をとるのも、もう、今日と明日だけですよ」
と、わたしは言った。
たった今、ウィンチェスターのことを思い出したように、やがて、今日のこの朝食のこともいつか思い出すようになるだろう、とわたしは思った。
「そうですってね。でも、わたしのほうは、まだまだずっと此処にいるんですよ。夏の間はずっと此処に残って、秋になればなったで、また、行くところがある」
 こう言いながら、彼は、わたしが膝の上に乗せていた朔太郎の詩集に目を留め、それを見たがった。
詩集を手にすると、彼はそれを逆さまに開いたり、横開きにしたりしながら、
「日本語ってのは、なんだか面白いもんですねえ」
と言った。
同じテーブルに着いていた他のイギリス人たちもそれに目を留めて、わたしの詩集のほうへと体を傾けた。
みんなの手に詩集がまわり、いろいろな冗談や笑い声が起こった。
さまざまな質問が次々とわたしに浴びせられ、それらに対してずいぶんと適当な英語でわたしは受け答えをし、時には身ぶりで言葉を補ったりもしたが、そうしながら、この人たちとこういう調子で今日一日を親しく過ごせば、わたしたちはそれなりにいい思い出をつくることができるだろうと思うのだった。
わたしのまわりにいるのは、隣りに座っている牧師をはじめとして、ほとんどがこの合宿所の運営者たちで、わたしよりはるかに年長の人たちだった。思い返すと、この合宿の期間中で、わたしはこういう人たちと最も多く言葉を交わしていたことに気づいた。彼らは、話をするにも冗談を言うにも、つねに程度をわきまえていた。彼らが交しあうのは、可もなく不可もない程よい親しさだった。
それもいいだろう、とわたしは思うのだった。そしてまた、自分はいつもこうなのだ、と心に呟きもするのだった。わたし以外の人々にとっては、どうやら確固として存在するらしい、激しい友情やら恋のやりとりやらといったものもなく、それらを求めもせず、また、この世の一切が一時に崩れ去るような絶望もなく、このように、いつも程よい具合にわたしの生命は続いていくのだ。幸福といえるほどの幸福もなく、身を切られるような不幸もなく、時にきらめくようなこともなく、かと言って、闇の中に埋没し切ってしまうわけでもなく、静かな水面に頭だけを出して、ゆっくりと泳ぎ進んでいくかのように、わたしは月日を経ていく。
疲労のために意志がたわめられてしまうような時の他は、確かに、自分の持ち時間の一刻一刻を、わたしは注意深く生きるようにしてはいた。それは、あるいは充実した生き方でもあったかもしれないが、つねに不安でよるべなく、いささか退屈でさえあった。
彼らの冗談にあわせて、わたしは適度に笑い、適度に説明をし続けた。

そうするうち、ふとした瞬間に、わたしは眼差しを、この親しげな人々の囲繞の向こうへと放った。
眼差しは光の帯のように遠く離れたテーブルに届いて、そこを照らした。白い薄物を纏った娘、こちらに背を向けており、その背のなかば近くまで甘露のように金髪を解き放っている娘が、このひそやかな照明の中に浮き上った。
シルヴィだった。
彼女のテーブルでも皆が談笑しているようだったが、彼女ひとりはやや沈んでいるように見えた。
どうしたんだろう、シルヴィは……という思いが浮かんだが、それをわたしは、心の中でわざと言い換えた。
『おや、あの冷淡な娘は今日はどうかしたのかな?自分の毒にでも当たったのかな?』
そういう意識的な思いを心に刻みながら、シルヴィという、数日前まではあれほど親しく感じられた存在が、いつの間にか遠い思い出そのものとなってきているのを感じた。
これはよい傾向だ、とわたしは思った。あんな娘に心を搔き乱されてたまるものか、そもそも、わたしたちは親しくなったのでもなんでもなく、ただちょっとばかり言葉を交わしたに過ぎないのだ、と考え続けた。わたしが、もし、シルヴィに惹かれたのだとしても、それは、あの顔の美しさに惹かれたに過ぎない。だって、確かに美しい顔ではあるからな。わたしは顔の美しさを気まぐれに好んだだけのことで、シルヴィという娘を好きになったわけではないのだ。彼女の冷淡さは、わたしが思い知らされた通りじゃないか。一体、わたしが彼女になにをしたというのだろう。なぜわたしをあのように意識的に無視したのだろう。そんなことをする権利がどうして彼女にあるのだ?なんて高慢ないい気な娘だろう……
 わたしは心の中で、いくらでもシルヴィに罵声を浴びせることができたし、実際、表向きは無言でありながら、できるかぎりの雑言を練り上げては頭の中のシルヴィの姿に投げつけていた。
要するに、わたしは、それまでかってなかったほどに、ひとりの娘に激しくのめり込み始めていたのだった。
シルヴィのあの時の無視が、すべての始まりだったに違いない。
安直な交流の可能性があのように崩れ去ることによって、シルヴィを、ただの束の間の知り合いと見ることをわたしは止め、絶対的な関係、憎み合おうが、無視し合おうが、なじり合おうが、とにかく、独特な何らかの関係を彼女との間に持とうと、おそらく、無意識のうちに決意したのだった。

(第二十二声 続く)



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