2017年10月9日月曜日

『シルヴィ、から』 36

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第二十声) 1

 ……わたしは夢を見ているのだろうか。それとも、わたしが夢なのだろうか。今まで響いていた声の語るところとは、わたしはずいぶんと懸け離れたところにいるようだが。

 わたしのいるのは田舎の貧相な木造の公民館だった。この館内には小学校の教室ほどの大きさの部屋がひとつあるだけで、それに加えて、戸外には申し訳程度に厠があった。
 この公民館の中に、今日はにわかに舞台と客席が設けられ、村の有志による劇が演じられていた。舞台と客席の間には太い縄が一本置かれているばかりで、その他は諸々に到るまで、これ以上は不可能だというほど、舞台装置は手を抜かれていた。
 客席には、村の小学校から借りてきた子供向きの木製の小さな椅子ばかりがぎっしりと並べられていたが、観客は十人に満たなかった。わたしを入れて八人ほどの観客が、どうにか腰をかけるだけが精一杯の椅子に窮屈に座って、背を伸ばして舞台を見ていた。
 二三人の移り気な観客が、室内に入って来ては出て、出てはまた入って来るという動きをくり返していた。そのたびに人は違うようだった。わたしは、そういう不真面目な観客が入ってきたり出ていったりするたびに、わざわざ大きく背後をふり向いて、連中を睨んだ。舞台に向かうかたちで観客席の後方に設けられている出入口の扉は、少し開けるだけでも悲鳴を発するものだったので、その音によって、彼らの動きはほぼ正確にわかるのだった。
だが、そういうことに注意を払う余裕のあったわたしもまた、やはり、不真面目な観客なのかもしれなかった。舞台で現に演じられている劇の筋がわたしによくわからなかったのは、おそらく、そのためだ。
 もっとも、にわか役者たちの声は、ごく稀にわたしのところまで届くだけであったし、舞台装置の簡略さと相反して、たくさんのけばけばしい端切れやガラクタを蓑虫のように体に付けて衣装とした役者たちの姿では、劇中人物の男女の性別を識別することさえも困難だったほどなのだから、必ずしもわたしだけが悪いとは言えないだろう。「あゝ、王子よ」とか、「しかしながら、王女さま……」といった呼びかけばかりがよく響いたが、こういう呼びかけを役者がしなかったならば、誰が王女で誰が王子かということさえ、なかなかわからなかったに違いない。
 劇のどのあたりからかわからないが、いつの間にか、わたしは知らず知らず居眠りをしていたようだ。耳に、突然、こんな言葉が鳴って、起こされた。
 「あゝ、死んでおしまいになった!とうとう死んでしまわれた!」
 わたしはこの言葉に目を開くと、なにかを一瞬に心の内に悟りながら、そして、さらに、その悟ったなにかを、よりはっきりと把握するために、心のあちらこちらの内壁に測鉛を振りあてつつ、舞台のほうを見た。役者が長い嘆きの台詞を語っているところだった。
 「王女さま!王女さま!目をお開きくださいましな。もう一度、そのお美しい目で、このわたくしめを慰めてくださいましな……」
 劇のクライマックスだった。
すべての観客がさらに長く背を伸ばして、この山場に見入っていた。
いつの間に来たのか知らないが、今まで空いていたはずの観客席が人で埋め尽くされていた。たいへんな人いきれで、わたしは胸苦しさを覚えた。喉に馴染まぬ液体のような空気を、わたしは飲み込み続けた。
座れない人たちが壁際や通路に幾層にもなって立ち並んでいた。あらゆる顔が、顎が、眼球が舞台のほうを向いていた。この、多くの観客の不気味な熱中は、悪夢に似たものをわたしに感じさせた。
突然、王女以外のすべての劇中人物が声を合わせて叫んだ。
 「おうじょさまあーー」
 「死んだ」とわたしは思った。雷のように迅速で密度の高い破壊力を持つ、後腐れない衝撃によって、良かれ悪しかれ外界との間の永遠の壁である額を、一時に裂かれでもしたかのように、突然わたしは、破壊されることと解放されることとの双方に伴う喜びを、不安を、いや、果てしなく沈降してはまた果てしなく上昇するような意識の流動の快感を以て、すべてを、はっきりと言葉にはならずとも、とにかくも、ありとあるすべてを知った、と思った。
 「死んだ。シルヴィが死んだ」という響きが心の中に広がった。
わたしは座っていた席に足をかけて、蛙のようにやわらかく後ろへ飛び、出入口へ通じている狭い通路があるはずのところを駆けた。
他の場所と同様に、通路も人でいっぱいだったので、駆けながらも通路の床板に足を着けることができなかった。通路にぎっしりと立ち尽している人々の頭を、鼻を、肩を、次々と踏んで、わたしは出入口へと駆けた。人々の体の無数の毛穴から漏れ立ち上る熱気が、喉の粘膜をねろねろと燻し立てたので、吐き気が食道を彷徨ったあげく、何度も喉元へと顔を出しそうになった。
自分たちの頭や顔を踏まれているにもかかわらず、奇妙なことに、誰ひとりとして、わたしに苦情を言う者も怒る者もいなかった。皆、固められた蝋人形のように舞台に顎の先を突き出したまま。微動だにしなかった。時間が止まってしまったかのように、なんの動きも感じられなかった。
はっきりとした動きをしているのは、観客たちの上を駆けていくわたしだけだったが、そういう自分の状態を頭の中で把握しながら、「動きのないところでひとりだけ動くことが、果たして動いていると言えることなのだろうか?それは、〈動く〉と呼べるだけの意味のあることなのだろうか?」などと、取りとめのない疑問を抱いたりした。
背後の舞台のほうをふり返らなかったので、わからないが、どうやら役者たちも動きを止めてしまっていたようだった。わたしの他にかろうじて動いていると言えるものといえば、立ち上ってわたしを深いところまで揺らめかす観客たちの熱気と、この公民館の中のあらゆる人間たちの様々な呼吸の音だけだった。

(第二十声 続く)



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