2020年5月28日木曜日

ふらふらしている ふわふわしている



Las de l’amer repos……
Séphane Mallarmé



苦い休息にも飽きて…
マラルメが
ある詩の冒頭に歌ったころも
わたしの遺伝子たちは
着物に馴染んだ
埃っぽく湿っぽい風土の肉体に
未完成のまゝ
潜んでいたのだったか

まだ明治の二〇年や三〇年のころは
日本橋生まれの母方の祖父秀松さえも
ぎりぎり
生まれておらず
もっと年下の祖母も
もちろん
生まれていない
曾祖母はすでにいたか
小さな体で
幼時の私を背負って散歩に出たり
会いにいくと
必ず海苔巻きを作ってくれた
下谷の筆屋池田屋の長女は

そうして
母方の曾祖父上杉寅松は
神田美倉橋の
武家から転じて繁盛した和菓子屋
桔梗屋の若旦那で
ろくに商売に精進もせずにすべて番頭任せで
音曲だの俳句だのに
自らはうつつを抜かしていた

店の財産を弟に乗っ取られ
病を得て
三〇代で寅松は死んだが
葬式の棺桶を買う金もなくて
祖父秀松は
家から戸板に父の亡骸を載せて
焼き場に向かったという
秀松少年の出世譚の第一部は
ここから始まることになる

東京駅や大手町から歩いて帰ろうとして
神田にはよく迷い込むが
つまらないところなのである
いまの神田は
神田祭でもないと
殺風景でいけねえや
とつぶやきたくなるようなところ

しかし
道から道とたどりながら
きっとここは秀松の駆けまわったところ
きっとこの路地は
寅松が
ちょいといい女のうしろ姿に見とれた道
などと
まわりから見たらおかしなほどに
きょろきょろしながら
いつの時代を生きているこころか
だれのことを
ほんとうは生きているあたまか
もう
わからなくなってしまって
神田かぁ
おじいちゃんたちの
神田かぁ
などと
貧相きわまるボキャブラリーで口を騙しながら
まだ肉体も捨ててはいない亡霊として
ふらふらしている
ふわふわしている




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