2020年5月21日木曜日

他分と花神と三文詩人




                 儒生不及游侠人
                 李白



三文詩人にたくさん出会ってきた

どこを取って三文というか
どの部分を三文と見るか
なかなか
これは
むずかしい

しかし
誤解されやすいが
三文詩人
という呼び方を
わたしは悪い意味で使ってはいない
馬鹿にしていない
軽蔑していない

あの人は三文詩人ですね
と言ったら
この下界では
その人への批判だと
やはり
受け取られがちではあろう
とは
わかっている

あなたは三文詩人ですね
と言ったら
この下界では
かなりマズイだろう
とも
わかっている
一九世紀のフランスやロシアだったら
手袋を投げつけられて
決闘だ!
となりかねない
プーシキンやレールモントフなど
そんな連中である
アイロニーの理解力の足りない
ちょっと
お馬鹿連中なのである
あいつら
(プーシキンの『大尉の娘』は渋くていいけどね)

わたしの場合
三文詩人
と言うとき
けっこう
敬意を以て言っているのである
三文だって
値がついているのは
凄いじゃないか
本当に思っている
わたしなど
ふだん書くものには
三文さえ値が付いていない
フリーである
フリー詩人
英語でだって書くぞ
Free詩人
どうだ!
ホイットマンっぽいぞ!
なんて
威張ってみている場合じゃないんだが…

三文
というのは
いくらぐらいなのか?

雑にネットを調べると
(ネットは雑に調べるものである)
(ネットに馴染みすぎると世の中なんでも雑になる)
一文は32円から38円ぐらいではないか
とあるから
三文は96円から114円ぐらいか

けっこうな額である

日に五つも書いたら
570円
稼げるかもしれないぞ
ひと月なら
17100円
一年なら
20万5200円
おお!
こりゃあ、税務署に申告しないといけなくなる!
これが六文詩人や
九文詩人になったら
もう
たいへんだ
ぼちぼちでんなァ
などと
マジで言わなならんことになりますわ

なぜ
三文詩人を
わたしは馬鹿にしていないか

だって
それこそが
の極意だからである

時の政権や財界の意向に沿った文字ならべは
(デンツーなどのお得意なやつだが)
断断じて
しない
此処にしか
は発生し得ない

そういうものを
だとわたしは思っている

は随想であり随私である
わたしのわたしのわたしにだけ随っていく言葉のならべ
大学のセンセが偉そうに賛美する古典詩歌にも
随っていってはいけない
それらをネタにするのは大いにやったらいいが
やっぱり古典だけが素晴らしいとか
古典に寄生虫して教授になってウマイ汁吸ってテキトーに生きてま
みたいなことをする文弱連中に
はない

ビミョー
なところだ、ここが

ランボーはパリの詩人連中に小便を引っかけたというが
大学の文学部のセンセなんぞにはなにを引っかけただろうね?

大学といっても
トマス・グレイのような凄い学究詩人もいる
時代が経ってずいぶん目立たなくなってしまっているが
マジで行ッチャッテイル本物である
イギリスやイタリアにはこんなとんでもない底知れない学者や詩人がいる
市井にあろうが大学にあろうが館の書斎にあろうが
立ち居振る舞いが変わらず
マジで行ッチャッテイル
万が一不幸にも大学に関わっちゃっているんならそのようでありたいね
ここに本当のダンディズムが出てくる
儲からないことをマジでやり続ける
名誉になどならないことをマジでやり続ける
この
マジのアル/ナシ
これは
詩人
のリトマス試験紙だね
PCR検査より正確にわかる
ここを見ていれば
『週刊文春』なみの捜査精度が出る

昔の古典詩人ばかり褒めて
小林秀雄やアルトーのむこうを張るような思い切った批評も書かかずに
解題みたいな小文で
ちょこちょこ世間的な専門家さんふうの居場所を確保して
なんだか詩歌に通じているようなふうを装う連中の
多いこと
多いこと

しかし
は一編一編が賭けであり
一幕劇であり
ひとり舞台であり
ハッタリであり
徹底的にまつろわぬ輩であり
体制順応型民衆などにはもちろんまったく目もかけられず
政府や文科省からは助成金など下りてくるわけもないのであるからして
せいぜいが
三文詩人
と映る風体を晒して漂泊の旅を続ける他はない

しかも
彼の
を詩と見る他人が万が一にも出てきてしまったりする頃には
彼は過去のじぶんの言葉ならべにすっかり飽き飽きしてしまってい
同じものを作り続けるべく求められている職人じゃアないんだから
いつの間にか
じぶんを脱ぎ捨てて
自分
ならぬ
他分
になっていってしまっている

花を咲かせたら
もう
その花からは去って行って
どこかで
べつの花に憑いて
咲かせようとしている
花神




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