2020年5月20日水曜日

あらゆる状況下で裏をかくこと

 

あらゆる状況下で裏をかくこと
前世は
非情の武士か
隠密だったに違いない
この心得が
幼児の頃からすんなり
身に染みていったのだから

幼時
引っ越しが多かったので
何歳の頃にどんなことがあったか
記憶が残りやすかった

まだ幼稚園に上がっていない
四歳の頃
若く二十代だった父母と
車で海岸までドライブした
日曜日

父は仕事で失敗ばかりしていて
そのたびに
引っ越しが行われていたが
また
やらかしたらしい
子どもながらにわかった
(注記しておくが
(若かった失敗者の父を
(わたしは批難もしないし
(恥じてもいない
 (不器用で酒に弱かったためで
 (若い父をはるかに越えた
(今の歳のわたしから見れば
(そういうこともあるさ
(ですべて終わる程度のこと

新潟の海岸の崖っぷちだった
「いま
「ここから海に飛び込んじゃえば
みんな楽になるわね」
と助手席の母が言っている
父は黙ってエンジンを吹かしていた
わたしは後部座席にいて
母のこの言葉にギョッとしている

やりかねないのを
わたしはよくわかっていた
父が失敗して帰って来たり
泥酔して帰ってきたりするたびに
母はわたしの首に包丁を押しつけたり
ネクタイや紐をきつく巻きつけて
「この子を殺してわたしも死にます!」
とやっていたから
年中やっていたから
包丁の刃を首すじに当てられると
けっこう冷たいが
幼時のわたしにはこれが
ほぼ毎月の恒例行事だった

車ごと海に飛び込めば
簡単には助からないことぐらい
四歳児にもわかる
テレビや映画でアクションものを
けっこう見ている四歳児なら
想像力は馬鹿にならない

黙っている父の足に力が入り
アクセルを踏み込んだりしたら…
と四歳児は後部座席から凝視し
もし力が入り出したら
もし力が入り出したら
と思いながらペコちゃんのような
大きな目をして凝視を続ける

アクセルを踏み込む瞬間に
ドアを開けて外へ転げ出られるように
ドアの開閉ノブに手を強くかけて
大きな目をして凝視を続ける
父の足の雰囲気を聞き取ろうと
全身をアンテナにして集中する

結果的にその日の決行はなかったので
わたしの車外脱出も決行されなかったが
わたしがわたしを取り巻く全世界から
じぶんを切断しようと決めたのは
やはりこの時だったように思う

じぶんの肌一枚の外にあるものを
なにひとつ信じてはならない
あらゆるものがわたしを騙し籠絡し
破滅させようとしかしない
そう全方位を見込んでつねにドアの
開閉ノブに手をかけておかねばならず
多少の怪我を覚悟して車外に
飛び出す決意をしておかねばならず
あらゆる状況下での周囲のすべての
裏をかいておかなければ寝首を
いつ掻き切られるかわからないと
はっきり認識して生きることにしたのは

四歳児がスムーズにこの人生観を
我がものとできたのはやはり
それなりの非情な前世があってのこと




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