2022年1月4日火曜日

ともすれば自分のからだそのもの

  


大掃除をする必要もなかったが

ゴミ置き場が年末年始に閉鎖される前に

大きなガラスあたりをちょっとだけ洗うつもりで

ちょろちょろと掃除を始めてみたら

ふだん掃除しないところにまで手をのばすことになってしまって

結果的にずいぶんと大掃除になった

 

特に風呂とベランダは大がかりなものになり

引っ越してきて初めて浴槽脇のカバーを開けたり

ベランダの隅々の真っ黒に埃や煤煙がこびり付いたところまで

布とブラシと指先で洗うことになった

 

家庭洗剤をバケツの水で薄めて

そこにぼろ布をくり返し入れたり絞ったりしながら掃除を続けるの

しばらくするうちに

手の皮膚はずいぶんと荒れて白っぽく乾き

それでも

天気もいいし

ここまでやり出したら途中で止めるのももったいない感じなので

濡らした布を指先で隙間や溝に突っ込んで拭き続けた

 

今まで黒いゴム止めの盛り上がりかと思っていたベランダの隅など

グレーのきれいな素地が顔を出してきたりして

あちこちが驚くほどきれいになったが

こうして掃除を続けているうち

住んでいる家全体が自分のからだの延長だというような

おもしろい体感を経験し始めた

 

ふだん暮らしている室内についてはそんな感覚も持っていたが

植木の土やいろいろな糸くずや煤煙が溜まり

場合によってはきっとゴキブリの糞などまで加わっていくであろう

ベランダの金属柱とコンクリートとガラス窓の隅などまでは

ふだんはやはりあまり触れたくないと思ってきたし

自分のからだとは異質のまったく違う世界というべきもので

ちょっと汚れていてもどちらかといえば見ないことにしたいし

自分たちが将来引っ越した後に清掃業者が洗うべき場所ではないか

とさえ思ってきていた

 

ところが一箇所をちょこちょこ洗ってみて

黒い汚れがけっこう容易にこそげ取れるのがわかってみると

いくつもある他の隅っこも掃除しておきたくなる

そうしていつのまにかけっこう長い時間

無理な姿勢を取り続けて掃除を続けることになった

 

こういう隅っこというのは

便利な掃除用具がいろいろ揃っていれば掃除しやすいだろうが

いくつかの風呂掃除用ブラシしか家にはなかったし

古い歯ブラシを使うといいということは経験的に知っていたが

歯ブラシでさえも先っぽが大きすぎ硬すぎて入らない狭いところなので

結局濡れた布と指先を駆使して洗っていくことになる

割り箸や爪楊枝に布を撒いてやったりもする

そんなことを延々とくり返していくうち

溜まっていた汚れが柔らかくなってくると指で抓んで除いたり

ゴミの袋に入れたりすることになって

いつのまにかゴミや汚れをビニール手袋もしていない指先で

じかに抓んで片付け続けることになっていた

 

住んでいる家というもののすべてが

自分のからだの延長だと感じたり

ともすれば自分のからだそのものだと感じるようになったのは

たぶん

こうしてじかに汚れのかたまりやゴミを指で抓んだからだと思える

仏教の最も重要な修行の作務の真髄というのは

ひょっとして

これか

と思うようにもなった

 

掃除というのは

不浄のものを生活空間から分離し

不浄を集める場に持っていって焼却処理したりするのではなく

汚れやゴミというものを

不浄のものと見なして生や生活や自分と差別してしまうことを脱ぎ捨てて

とりあえず今回のこちらの生を維持させてもらうため

人間側のわがままをちょっと通させてもらいつつ

それらを人間流に適切に扱わせてもらうということに

要諦があるのかもしれない

そんなことを思うようになりながら

7時間ほどぶっ続けの予期しなかった大掃除を終えた

 

風呂の排水溝に溜まる髪の毛や

垢やシャンプーやソープでどろどろしたゴミは

たびたび取り除かないと排水が滞るのでよく取り除くが

それとても何度もやるうちに

どろどろのヘドロのような汚れにじかに触って

こそげ落としたり洗ったりできるように慣れてきていたが

もともと自分のからだの肌から落ちたものなのだから

汚いといっても限度がある汚さのはずで

この汚れでさえ自分のからだや自分そのものではないか

とはだいぶ以前から思うようになっていた

 

掃除というものばかりか

汚れやゴミや穢れというものが

軽佻浮薄な「我」なるものに教え込んでくれるものには

まだまだ厖大なものがある気がする





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