2018年3月27日火曜日

後の世の人に都合のいいかたちで残るばかり

 
母方の家は墓石が古いので
新たに名を刻むことができない
石のどの面も
江戸時代の人たちの戒名で埋まっている

名はもっとたくさん刻まれてあるべきだが
大震災の後や空襲の後の
寺の広かった墓地の統合縮小の際
他の墓石は整理されてしまっていて
象徴的な趣でひとつだけが選ばれ
一基だけが今は立っている

老いてきた叔母が
石板で墓誌を立てたいと言い出した
今の墓石では誰が入っているのかわからない
墓参に来た人にわかるように
入っている人の戒名と俗名を記して
墓石の脇に立てておきたいと

今の墓地では隣りの墓との間が狭い
墓誌をなど立てたら窮屈な雰囲気になる
そもそも来る人は限られているのだし
墓参に来るほどの人ならば
誰が入っているかはわかっている
となれば理屈の上では
俗名や戒名を記した墓誌などいらない
遺族に故人の戒名はいらないし
仏様だの菩薩様だの如来様だのなら
墓誌などなくても
すべてお見通しでなくてはいけない

骨壺についても
じぶんの気に入った奇麗なものを
などと言っている
見る人もいないカロートの中で
なおも見栄を張ろうというのか
稀に骨壺が外に出される時のために
おめかししておこうというのか

はゝあ
名を残す
じぶんをどうにかして残す
そんなテーマが
人生の終わりがいよいよ近づいて
浮き上がってきたな
そう見える

この世に残るものは
たんに後の世の誰かが必要とするものばかり
必要とされると言えば見栄えはいいが
要は利用し甲斐のあるものだけが
かろうじてわずかに
道具として重宝され続けるというばかり
故人自身の望んだようには残らず
ずいぶん歪められて
後の世の人に都合のいいかたちで残るばかり
幕末の人間たちを
司馬遼太郎がすっかり捩じ曲げて
自分のでっちあげる活劇に利用したように



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