2018年3月6日火曜日

「自我に対する執着とは執着がないということだ」と如来は説かれた…

  
スプーティーよ
と呼びかけて
救うという迷妄について
師は問う

スプーティーよ
どう思うか
わたしは生きているものどもを救った
というような考えが如来に起こるだろうか*

師みずから
すぐに答えている

スプーティーよ
如来が救ったというような生きものはなにもない
如来が救ったというような生きものがあるとすれば
自我に対する執着が
個体に対する執着が
個人に対する執着が
如来にあることになるだろう

ここまではわかりやすい
しかし
この後が注意すべきところ

スプーティーよ
「自我に対する執着とは執着がないということだ」
と如来は説かれた
しかし
かの愚かな人たちはそれに執着する
スプーティーよ
「《愚かな一般の人たち》というのは
愚かな一般の人たちではないに他ならない」
と如来は説かれた
それだからこそ
《愚かな一般の人たち》と言われるのだ

翻訳の問題に翻弄されるかのようだし
言葉と論理に足を取られ続けるかのようだが

自我には実体がないのだから
それに執着することは論理的に不可能であり
かつ執着する主体も存在しないのだから
執着は発生し得ない
実体のないものに対し存在しないものが発生し得ない現象を向けるのは
いかように試みられようともそもそもあり得ない
よって師の論述の正しさは明瞭である

だが
以下の部分の「愚かな人たち」や「愚かな一般の人たち」については
どう理解すべきか

しかし
かの愚かな人たちはそれに執着する
スプーティーよ
「《愚かな一般の人たち》というのは
愚かな一般の人たちではないに他ならない」
と如来は説かれた
それだからこそ
《愚かな一般の人たち》と言われるのだ

自我に実体がなく
執着する主体も対象も実体を持たないのだから
執着する能力のある自我という架空の域における虚像に過ぎない
識別認識のひとつとしての「愚かな人たち」は
そもそも存在しようがない
したがって
「《愚かな一般の人たち》というのは
愚かな一般の人たちではないに他ならない」
また
実体のない誤った架空の域における不在のものへの呼称であるゆえ
《愚かな一般の人たち》と言われるのも
呼び方としては
それなりにふさわしいことになる

さて
「しかし
「かの愚かな人たちはそれに執着する
という師の言葉は
表現の上では
やゝ浮いたまま残るかに見える
曖昧でもある
ここでは翻訳の問題が悪さをしているかもしれない
愚かな人たちが執着する「それ」とはなにか
自我か
それとも
如来の説いた
「自我に対する執着とは執着がないということだ」という教えか
あるいはこの教えのの言語表現の
この単語配列のあり方か

思いをやわらかくして
師とスプーティーの対面場面に列席してみよう

スプーティーよ
「自我に対する執着とは執着がないということだ」
と如来は説かれた
しかし
かの愚かな人たちはそれに執着する

と金剛般若経にはあるが
師はこのように言っただろう

スプーティーよ
自我に執着しているなどと
よく言うがね
自我もなければ
執着もないのは
いつも話している通りじゃないか
だから
自我に執着していると言ったところで
それは
執着がないと言っているのと同じことなのだよ

けれども
あの愚かな人たちはやっぱり自我に執着しているじゃないか
などと
自我や執着というものがあり得ないと知っているはずの
わたしたちの間で
どうしても言ってしまいがちになるね
わたしたちと違って
自我や執着のあり得なさを
まだ知的認識にまで引き上げて確定し得ていない人たちのことを
《愚かな一般の人たち》などと呼びながらね
しかし
そういう人たちの
自我や執着についての無知は
その部分に対する彼らの知的認識における無知でしかないと
わたしたちはよくわかっている
その部分の知的認識以外は
彼らもわたしたちも全く変わらないのだし
そうだからこそ彼らが生まれてきて生きて活動しているのを
わたしたちはよくわかっている
如来が
「他人のことを《愚かな一般の人たち》などと呼ぶ場合があるが
自我や執着に実体がないという構造的把握ができていない人たちと
「そうした把握が知的にできている人たちとの間に差異はない
「それが差異に見えるとしても
「それは実体のない架空のものについての認識上の差異であり
「したがって差異ではない
「だから《愚かな一般の人たち》と呼ばれる人たちは
「《愚かな一般の人たち》ではない
とおっしゃるのももっともなことと言うべきだろう
もっとも
そのように実体のないものについての知的な把握が
問題となっているため
《愚かな一般の人たち》といった呼称は
いかにもその圏域に付随させておくのにふさわしい
ということにもなろうがね…



*岩波文庫『般若心経・金剛般若経』(中村元・紀野一義訳注)によりながら、訳語を変えたり、編成を変えたりしてある。




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