森友
という流行りの言葉に触発されて
小4時代の担任の先生の名前をふいに思い出すことになり
(なんだか後藤明生ふうの展開ではある…)
「大友先生」だったよナ
とぼくは思って
書きものにもそういうふうに記してしまったのだが
その後就寝してから
ふと目覚めた時のこと
「あ、長友先生だった…」
と間違いに気づいたのであった
で
書きものの「大友先生」を「長友先生」に書き換えた次第
なんで「大友」というふうに思ってしまったんだろう
といろいろ考えはするけれども
長くなるからあれこれ書かずに省略します
これ、スタンダールが小説の中で時々やった手法
いろいろ書くと長くなるから此処んところは省略することにする… なんて
作者がじかに作中で書いちゃうんだからスタンダールは超モダン
小説ではなにをどう書こうが自由だと石川淳は言ったものだが
スタンダールは19世紀にそれを実現していたわけ
そういえば石川淳は旧制高校でフランス語を教えた時
『赤と黒』をテキストに選んだが自分では二冊買っておいた
まだペーパーナイフが必要な本の装丁の時代で
うちでは一冊のほうをよく調べて読み込んでおいて
教室にはまだページを切っていない真新しいほうを持って行き
教壇でペーパーナイフを使って最初から切って開いて購読していく
このパフォーマンスに高校生はまんまとやられて
石川先生、ページを切っていくそばから読んでいくんだからスゴイ
とたちまち尊敬を集めたという
駐日フランス大使だったポール・クローデルの通訳をしたり
いろいろな長編小説を翻訳したりした山内義雄の友人で
東京外大のフランス語科出の石川淳が
教室ではじめて『赤と黒』 を読むはずないじゃないかというところに
思いが到らない学生たちもかわいいけれど
石川淳もなかなかお洒落な悪戯さんなのであったね
さて
かつての先生の名前の話ついでに
もうひとつ…
愛知県の田舎の小1の時の担任だった鈴木先生を
フルネームで「鈴木信夫」と記したけれど
「信夫」でなくって「信男」 だったかもしれないなァとも感じている
これは「あ、間違っちゃった」と確信したわけではなくて
かもなァレベルである
「信夫」と「信男」を見比べると
後者のほうな感じがつよいなァと思えてくるわけで
この
「思えてくる」
という微妙な現像過程を思いの中で味わいながら
小1の新学期のはじまりの
そう
あの始業式の晴れた日のことをぼくは思い出したりしている
ちょうど満開に咲いた桜の木があったあたりを
たしか『宇宙少年ソラン』の
ソランとチャッピーが描かれてある上履き入れを振りまわしながら
喜んでスキップして行ったことが思い出される
落ちつきのまったくない四六時中躁タイプの子どもで
どこでもスキップするものだからよく転んだが
始業式の日は大丈夫だった
小学校の校庭側の門から入って行ったが
そのあたりにはクローバーがいっぱいに生え広がっていて
放課後にはよく四葉のクローバーを探して
友だちとたむろしたものだった
小1の頃のことなんかそんな精細に覚えているのか?
と訝しく思う人がいるのかもしれないが
そういう人をちょっとさびしく思う
ぼくは少なくとも2歳の頃の記憶を鮮明に持っていて
3歳の頃ともなればかなり完璧な記憶を持っている
父の仕事の都合で日本中によく引越しをしたので
住んでいた場所やアパートや家の様子や庭の様子などが目安になり
そこから年齢が割り出せるのだ
それにたぶん
生活の仔細を記憶する力も強いほうなのだろう
大西巨人の『神聖喜劇』では
記憶力の強い兵隊が日本軍のシステムや心性と戦うわけだが
やろうと思えばあれほどの生活記憶力をぼくは発揮できるかもしれ ない
と言いながらも
鈴木先生の名前については
「信夫」でなくって「信男」だったかもしれないなァ
なわけだけれど…
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