2018年3月11日日曜日

ふいに魔法の言葉にかわる瞬間が…



森友…
っていうのを聞くと
小学4年生のとき担任だった長友先生の名前を思い出す
長友やすのり先生
やすのりを漢字で書くと
泰範
だったような
恭範
じゃなかったと思うんだけどな

ない
っていえば
森友とは
なんの関係もない

最後の「友」だけだ
関係が
ありそうなのは

韻を
踏んでる
って
いえば
踏んでる

ぼくは小3の1学期まで愛知県の平和でのどかな田舎にいて
2学期から関東に引越しした
もともと東京生まれだから
ほんとの故郷に戻ってきたわけだが
愛知の田舎はいいところだし
小学校生活はあそこがはじめてだったから
あそここそ自分の故郷だと感じていた
あそこの土地にも
風土にも
学校にも
先生たちにも
ぴったり同化していた
ちょっと精神医学的な言い方をすれば
あそこには“他者”がいなかった

関東に来ると
もちろん
風土も雰囲気もちがう
学校もちがうし先生たちもちがう
友だちたちもちがう
子どもだから
そのときのじぶんの心が受けた刺激がよくわからなかったが
後から見れば
すごいストレスに陥っていたらしい
まったく“他者”のいなかった愛知の田舎とちがって
なにもかも“他者”ばっかりになっちゃったから

引越し後の小3の秋から担任になった服部先生は
9歳のぼくにはちょっとおじいさんっぽい先生に見えた
髪の毛もいくらかバーコードだった
40代後半ぐらいに過ぎなかったはずだが
愛知の田舎では新設の小学校だったし
先生たちは校長先生以外みんな若かったからそう見えた
1年生のときの担任の鈴木信夫先生も
2年生と3年生の担任だった山本芳子先生もまだ20代で
山本先生などは学校を出たばかりで赴任してきていた
周囲はいちめんの田んぼや川沿いの草っぱらばかりが広がる小学校
いろいろなところ
教室や校庭や廊下や給食室の近くなどで
ぼくは山本先生に向かっていって抱きつくのが大好きだった
先生は“他者”ではなかったから
なにかというと先生の手を握ったり
脚や腰に抱きついたりするのがあたり前だった
男の子であれ女の子であれ他の友だちもみんなそうしていた
先生の手や脚や腰の取りあいなどはしなかったし
その点はみんなわきまえがあった
たくさん生まれた子犬たちが
つぎつぎと母犬に鼻づらを擦りつけに行くようだった
先生というのはそうする相手だと思っていたし
先生のほうでも拒まなかった

しかし引越してから会った服部先生は
怖くも冷たくもなかったけれど
そういうふうにはできないような雰囲気があった
山本芳子先生に毎日やっていたようなことは
もうここではできないんだと感じ
ぼくはほんとうにひどくさびしくなった

4年生になって新しい担任になった長友先生はもっと若くて
やはり20代後半だったと思う
片方の目の白いところに
血管がほんのちょっといつも充血しているところがあって
それを見るたび
大丈夫かな?となんとなく不安にさせられた
この長友先生は
服部先生よりはるかにきびきびしていて
面倒見もいいし
やさしいし
若いから体育のときなんかもいろいろ頼りになるしで
いい先生だったと思うが
なぜだか
ずいぶんと“他者”な感じのひとだった
山本芳子先生のように手をつないだり
抱きつきにいったりしてはいけないんだという感じが漂っていた

ひょっとしたら
小4になってすこし成長して
自他の区別がもっと付くようになってきただけのことかもしれない
けれども
ぼくは長友先生が“他者”な感じがするのがひどくつらかった
服部先生の場合はちょっとおじいさんだからしょうがないと諦められたが
若い長友先生が“他者”な感じなのはつらかった
同じように若かった山本芳子先生とは
自他の区別がないのをあんなにたっぷり生きてきたので
学校や先生と二度と同一化できないかもしれないと感じると
とてもつらかった

長友先生の担任のときの秋から
ぼくは内臓の病気を発症し
その後の6年間を闘病に費やすことになる
不治の病なので
6年後にふいに治ったのは奇跡的で医者も驚いたけれども
それでも6年間
ぼくは少年時代を失ってしまった

いまから思うと
あのときの“他者”の感じ
“他者”たちにすっかり取り巻かれ
長友先生さえ“他者”でしかないというあの絶望的な感じも
ひょっとしたら
大病の原因になっていたのかもしれない

いまは
“他者”なんて言葉を使って
あのときの気分をある程度表わしてみることができる
でも小4の子どもには
“他者”なんて言葉はやすやすとは使える言葉ではなくて
「山本芳子先生にぴったりじぶんを同一化していたのに
「それが失われてしまった結果のあの楽園喪失体験
「そういうものもまた
「きっと大きく影響していたことであろう
ーなんていうような
ちょっと客観的な突き放したような言い方も
もちろんできはしなかった

言葉はいつも遅れ過ぎてやって来る

やって来たときには
さびしさやかなしみもすでに去っていってしまっているのがわかり
もちろん
楽園も
自他の区別がないあの屈託なさも
おなじように過ぎ去ってしまっているのがわかる

そうして

森友
なんていう言葉が響いてきて
長友先生も甦り
ひょっとして
長友先生が“他者”っぽかったなんて
小4のぼくの思い込みで
小さな心の中での取り越し苦労に過ぎなかったのかもしれない
と思い直す気になったりもする

森友…
なんていう言葉も
ふいに
魔法の言葉にかわる瞬間がある




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