2022年3月5日土曜日

方向転換


 

虚を衝かれる

ということがある

 

住まいから7分ほどのところにあった

フランス語書籍専門の欧明社が

今年の2月末で店じまいすることになったため

終わりにあたって

何度か本を見に行った

 

目と鼻の先にあるようなものなのに

奇妙なもので

たびたび行ったわけではなかった

東京駅近くの丸善や

新宿の紀伊國屋書店洋書コーナーのほうが

慣れているためか

気分的距離は近いと感じていた

 

それでも

年に数回は見に行ってみて

他の書店にはないアルバン・ミシェルの

大判の『ジャン・クリストフ』があったり

プルーストの『失われた時を求めて』の

大判で読みやすいガリマール社のブランシュ版があったり

なぜかマキャヴェリやモンテスキューが充実していたり

歴史学のフォリオ版にもとてもよいものがあったりするのを確認していた

文芸趣味とはべつに

フランス革命からナポレオン時代から王政復古までを

歴史的にも思潮的にも軍事的にも一貫して追い続けているので

いろいろな歴史学の書籍が棚に並んでくれていると

やはり見やすくて助かるのだ

 

それらはあまり客の関心を惹かないようで

数年のあいだ買われていくこともなく棚に並び続けていた

それをいいことに

こちらものんびりと構えていて

そのうち少しずつ買っていこうと思っていた

プルーストのブランシュ版などは

はじめからではなくとびとびに数冊購入して

すでに持っているプレイヤード版や

時代ごとにカバーの違うあらゆるポッシュ版やフォリオ版とともに

少しずつ書架に並べて行っていた

 

こうした雑談は

まぁ 

いいとしよう

 

虚を衝かれる話に

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店じまい間近の欧明社の棚に売れ残っていた

ガルニエ・フラマリオン版の

デュマ・フィスの『椿姫』とピエール・ロチの『お菊さん』を

ふと手に取ってみた

どちらも高校生の頃に翻訳で読んでしまっていて

自分で自分に課した

文学の勉強の必須課題として

たいした感興も覚えずに読み終え

(たとえば夏休みの猛暑の室内で絨毯の上に寝転びながら・・・)

たとえば冬の国電のホームで手をかじかませながら・・・)

それっきり縁を持とうともしなかったが

デュマ・フィスの『椿姫』は

はじめてフランス語でしっかりと読んでみると

衒いのないクリアな文章による気持ちのよい名文だった

内容よりもこの文章に打たれた

 

ピエール・ロチは1990年代の終わり頃

もっとも熱中した作家のひとりで

ことに『アズィヤデ』の雰囲気には陶然とさせられ

一時期ほかの作家のものが読めなくなったほどだった

ロチの生地である西フランスのロシュフォールまで旅に出て

ロチの記念館なども訪れて大量の資料も買い集めてきた

しかし作品としての『お菊さん』にはあまり感じるところがなく

いい加減なところで放り出した

その頃は私もまだ若く

物語の複雑かつ多層的な迷宮のうねりや

奇矯なまでの言語表現の実験でこちらを引き込んでいく類の

強度のある文芸作品に惹かれ続けていたのだ

短歌でいえば塚本邦雄や藤原定家には深く惹かれながら

土屋文明や佐藤佐太郎の味を感知できないような

粗い味覚しか持っていなかった頃といえる

 

あらためて2022年に『お菊さん』を手に取り直してみると

1888年に書かれたこの作品が

意図的に

プロットなしドラマなし情熱なしで書かれた

驚くほど

20世紀的ないしは21世紀的な

未来的なエクリチュールの作品であることがわかり

印象は一変した

 

『ナルニア国物語』の作者C.S.ルイスは

16歳でジョージ・マクドナルドの『ファンタステス』を読んだ時のことを

「その夜、私の想像力は、ある意味で洗礼を受けたのだ

私の残りの部分については

当然のことながら、もっと長くかかったものの

ともかく、『ファンタスティス』を買うことによって

私が面倒な羽目に陥っていくことになろうなどとは

まったく考えてもいなかった」

と語っているが

もっと軽いとはいえ

似たような洗礼を

わたしは店じまい間近の欧明社の棚の前で

受け直したのかもしれない

 

今の私にとっても

未来の私にとっても

とうの昔に卒業してしまったと思い込んでいたゆえに

まったく重要でないと見なすことにしていた作家の文章によって

私は十数分ほどのあいだに

精神と文体の方向転換を遂げてしまった






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