2022年3月19日土曜日

ぼくぼくぼくぼく

 

 

自由詩形式を使って

ずいぶんたくさん書いてきたのに

「詩」に対しては

ぼくは皮肉な態度を採り続けている

 

そこには謙譲もあれば

批判も込められている

ときどき引きあいに出すが

ボードレールや

ランボーや

マラルメや

パウンドなどの後で

わたしは「詩」を書いてござる!

などと素朴に思える人を

やっぱり

軽蔑してしまうのだ

 

何十年ものあいだ

勢い込んで

詩集を

歌集を

小説集を

評論集を

何冊も出してきた人たちを

まわりに見続けてきた

何十年か経って

かれらは

みな

消えてしまった

かれらはまだ老いて生存していても

かれらの本は消えてしまっている

国会図書館の倉庫のどこかにはきっとあるのだろう

しかし

それは残っているということではない

ブルトンに発見されるのを待っているロートレアモン

のような

奇跡を夢見ても

今後の日本ではむなしい

他人が全集を編むような存在にならないかぎりは

残ることはない

残ることがないということは

書籍づくりの場合

はじめから

なにもなかったということだ

なにもしなかったのと全く同じということだ

全集が編まれたとしてもむなしい

何度も編み直される全集でないと残っていかない

全集が出た作家や詩人や歌人でさえ

図書館にしか残っていかない

巷のふつうの小さな書店で容易に手に入らないものは

詩歌とは呼べない

文芸とは呼べない

はじめから存在しなかったのと同じなのだ

 

いま書いているこれもそうだが

ぼくの書くものには

ほぼ

だれも読み手はいない

メール便でもう20年以上も送り続けているが

送った先の人たちのほとんどが

とうの昔に迷惑メールに分類しているのを

ぼくはよく知っている

自動消去に設定している人もいるだろう

 

それでいっこうかまわない

メール便で送りはじめた当初から

そのように扱われるのを前提としていたし

大事なのはとにかく

紙媒体で送るムダと開封の面倒を省き

送られた側が容易に捨てられるかたちにすることだったから

なんといっても

受け取る側がいちいち封筒をナイフで開封したり

内容物を紙のゴミの袋まで持って行ったりする労を省きたかった

というのも

ぼく自身がそれで苦労していたからだ

 

じつは送るこちら側にとっても

はじめから宛先は

あって無いようなものだった

最初から抽象的な記号としてのヒトを想定し

その抽象的な記号にむかって送ることにしたのだった

というのも

こちらにとって大事なのは

とにかく多量に書くことだったし

送るのは

なんといっても

じぶん自身に対してでしかないのだから

アタマのなかの他人は

つねに

じぶん自身でしかない

 

多量に次々と書かないと

古いかさぶた文体は変貌していかない

かさぶた文体は剥がれ落ちていかない

若い頃に好んだり

影響されたりした結果にできたかさぶた文体や

おのずとこびり付いた臭い書き癖を

多量に書きながら

さまざまなテーマを扱いながら

ごしごしと削ぎ落としていくことが

なにより大事だった

 

ぼくは20代はじめに

石川淳や歌舞伎の文体の徹底的な洗礼を受けている

ドゥルーズやル・クレジオの文体にも影響された

開高健の文体も焼き印のように残ったし

なにかというと三島由紀夫の見得を使ってしまう癖があった

10代ではポーの書き癖や芥川の処理法を

さんざん物真似し続け

学校のレポートや作文は

ポー臭や芥川臭で臭気ふんぷんたるものになってしまっていたし

詩では中原中也と萩原朔太郎の口ぶりを真似た

それらをこそぎ落すのは

ほんとうに並大抵のことではなかった

セリーヌを読んだぐらいでは落ちないし

史記や大鏡や日本書紀を読んでも剥がれ落ちない

かえって御堂関白記やサン・シモン回想録を読むほうが洗浄力がある

短歌を作ってみても

寺山修司の物真似を何年も続けたし

その次は塚本邦雄のやり方が長く続いた

それを剥落させるにはなまじっかな近現代の短歌では迫力が足らず

多量の古典短歌の長い長い読み込みが必要だった

近代の歌でも島木赤彦や窪田空穂にはそれなりの洗浄力があった

なにより土屋文明は凄まじい劇薬として機能してくれた

 

何十年か

とにかく多量に書き続けてきてみて

この頃ようやく

過去のぼくのことば使いを汚してきた影響を

だいぶ脱して来れたように感じる

長い長い文体練習だった!

文体練習というより

長い長い他人の真似垢のこそぎ落としだった!

 

つい数日前

とうとう

自由詩形式を捨て去ってもかまわない

と実感し

急に

とほうもない自由な気分になった

 

捨て去ってかまわない

と思うのは

使わない

と決めることではない

 

まだ使うかもしれないし

なお使うかもしれないし

使わないかもしれない

自由詩形式はいずれにしても

ぼくのぼくであるところのぼくからは

ぼくぼく

ぼくぼく

剥がれ落ちてしまって

宙に舞っていて

それを指先でつかまえられても

られなくても

ぼくにも

ほかのだれにも

もう

どうでもいい

 

藤原定家

『近代秀歌』に曰く

昔、貫之、歌の心巧みに、

たけ及び難く、

詞強く、

姿おもしろきさまを好みて、

余情妖艶の躰をよまず。

 

この

「余情妖艶の躰をよまず」

ってのは

いいかもなァと

思える





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