2017年9月22日金曜日

『シルヴィ、から』 24

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第十六声) 1


 …叩くのは誰だ、
出来のいいとはいえねえこの頭、
まったく、
そのために昔から持ち主ときちゃ苦労させられ詰めで、
その上、
屈辱の受け通しだったんだが、
とにかくもそいつの内側から華奢な頭蓋の壁を小突くのは何者、
突然、天をきりきりと裂く稲妻のように、
ーーまるで女のいいとこみてえに人の動きをハッタとばかし脅かすもの、
気がつくといつの間にか目の前に浮かび上がってきている、
昔の文字に覆われた朽ち残った木板、
ーーまったく、垢に塗れた陽物よろしくネトネトと崩れんばかりだがよ、
それとも、
扉を開けてみると、歯の隙で残り腐った食物の毒の気を吐く、
起き抜けの女の息ほどにも湿った夜風の、
その嘲笑ばかりが吹き込んでくる深夜の謎の敲門、
ふん、
馬鹿野郎、
今開いたのは門だぜ、
門、
あっちじゃねえんだ、
血の管が、
ーー無数の親愛なるわが生物一族の兄弟の黴菌どもの通り道たる血管が、
頭のどこぞで切れたのでなきゃあいいが、
あるいは淋の野郎のあの白糸よろしく神経が涙にほぐれちまったのかもしれぬ、
なににかって涙にさ、
表に洩らすことなく内へ内へとひたすら隠し続けてきた涙にほぐれちまったのかもしれねえってんだ、
だとすればよ、
限界が来たんだな、
その神経のとろけほぐれたところから、
泡のようにも幻のようにも妙な情景がぷつぷつと怪しい出来物みてえに浮き立って、
どこか知らねえが頭ん中に霧のように、
いや、
濡れた路上に流れる反吐のように広がって行きやがる、
これはいってえなんだってんだ、
どこのことだ、
え、
人間様がてえねえに大地に植え込んだようにやわらかに芝生が広がっている土地らしいな、
広いところだ、
青い空、
それに加えて、
苦しみの中にいる者を救うことのできるほどにも白い、
まっ白い密度の濃いたくさんの雲か、
涼やかな微風が娘の金の髪たちの命を悶えさせる、
ーー娘?
まったく、どうも、ちょっと頭の調子がおかしくなって来やがったようだが、
なんだか俺が今の俺でなくなっていくような妙な、
それでいて、
ずいぶんといい気持ちだが、
だが、
だが、
だからと言って、
この娘がいったいどうしたってんだ、
誰なんだ?
この緑の地に点在している樹木の若い一本の下、
無造作に投げ出されているのが愛らしくもあるベンチに腰を下して本を読んでいるこの娘のことよ、
雲のように白い服、
雲のように広がっていこうとするこれもまた白いスカートが、
脚を大きく組んだしどけない寛ぎのさまを清潔さと可憐さとで覆って婀娜な外見を作っている、
そうして、
……娘に近づいて行くのは誰だ?
おや、俺だ、
この俺じゃないか、
いやいや、
俺がどこかの時間の中に置いてきちまった懐かしい姿だ、
昔は俺のものだった俺の姿、
今じゃ他人ほどに遠い俺の過去、
過去よ、
この糞野郎、
語るのか、
この美しい娘に、
なるほど、
手に入れるには持って来いだ、
涙を抑えてその金の粘土のような髪でも引っつかみ、
この大空の下にばっかり押し倒して闇を作るにはな、
ところがおまえは今の俺にや薬にもならねえ紳士的な御心の持ち主のようだ、
いや、
正確に言えば臆病者、
意気地無しのおとこ女ってとこだ、
ふん、
どうだ、
え、
だから、
手荒なことはすまい、
できねえんだからなあ、
逆に手荒なことを娘から、
いや、
娘の幻から一生され続けるかもしれねえぞ、
注意しろよ、
おまえ、
俺の過去よ、
え、
そういう娘が男の一生を狂わすってことをおまえはこれっぽっちも知らねえようだからな、
やめとけってんだ、
やめておけ、
たかが女、
飾り立てた肉の揺らめき、
金さえあれば、
いいや、
無くたって、
いざとなりゃ、
首っ玉ふんじばる度胸さえできてりゃよ、
おまえ、
そんなもの、
街にはうじゃうじゃと居やがるんだ、
こんなものの中にまで暗闇の道を探ろうとする必要はあるまいに、
……馬鹿め、
娘の前まで行き着いてしまった、
なにを言う気だ、
今からでも遅くはねえ、
戻って来い、
遅くはねえって、
手遅れなんてことはこの世にはありゃしねえんだ、
人間はよ、
後戻りする時にだけ積極的になりゃいいんだ……

(続く)



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