La bêtise consiste à vouloir conclure.
Flaubert
だれもが
判定者であろうとしたがる
それも
最終判定者に
で
世の中は
一言居士でいっぱい
一言で済ませられない人たちは
評論家もどきに
最後に勝つ評者は
いつの時代でも
他人より生きのびた者
ほんの数年でも
ほんの数秒でも
生きのびた者こそが
最後に勝つ評者
もちろん
彼も
時の経過とともに
すぐに負ける
彼を弔う人たちが
この人はこういう人でした…
と弔辞めいたことを
語る時
もう彼は負ける
評される側にまわったから
判定する
判定される
評する
評される
の
この下らない無間地獄を抜けるには
どうすればいいだろう
やっぱり
チェーホフのような
人界への鏡としての小説
へと向かうか
ドストエフスキーのように
複数の声や思念を
厖大に収録し続ける場としての
ポリフォニー小説
へと繁殖していくか
視野に入るすべての人間たちを
自分の巣に懸った情報として
凝視し
彼らの声に耳を凝らし
オブジェとして舐めまわす
クモのようで
さらには彼らに対する
さまざまな自分の思いも
すぐさまオブジェ化し
ためつすがめつ
ひっくり返したり
弾いたり
否定したり
また見直したりする
プルーストのやり方の
世界を膠着させずに
成ったかと思うと
また変容させ
ひっくり返し続けていく
あの不安定さと
無限変容の増殖ぶりへと
蕩け出ていくべきか
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