2017年9月26日火曜日

『シルヴィ、から』 27

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第十七声) 1
 

       ……未来、あるいは思い出。このふたつに合わせて現実までもが、この時ばかりはひとりの娘の中に凝集されていたのだ。わたしの未来、わたしの現在、そして、過去。今から見ればすべてが過去。その過去の中のあの日から見れば、続く日々は未来、はじめて会った日々は過去、あの日自体は現実のまさにその時。
どこからとも知れず響いてきていた声たちの言うところが正しければ、この日はすでに6日目、余すところ4日の7月29日か。
わたしもまたこの土地に来ていたのだ、声たちよ。
そもそもおまえたちはこの日、どこに居たのか?
おまえたちは私なのか?
これまで響いていたおまえたちの声は、あれは、私の声だったのだろうか?もしわたしの声だったとしたら、あれはおまえたちの声ではなかったということになる。
もしおまえたちの声だったならば、あれはわたしの声ではないということ。
おまえたちといい、わたしという、どうしてこういう違いが生じたのだ?
どうしてわたしたちがおまえたちでなく、おまえたちがわたしでなかったのか?
ある地点からこちらへ来るとわたしとなり、向こうへ行くとおまえたちとなった、そのある地点とは一体どこだ?
そして、そういうことの起こったわけは?
冗談や芝居でないのならば、理由があるはずだ。
理由とは根底、根拠、あるいは原因の謂か、ーー本当か?
理由とは象徴ということの別名ではないのか?
まあ、やめておこう。理由とは根底、そうしておこう。その根底がいつもわからないのだな。わかるのは、認めることのできるのは、根底から流れ出た道の果て、瑣末な情景たち、物事の現われ、様々な現象だけだ。それだったら、多少口べたにでも語りうるのだ。わたしのこの日の出来事を、いや、この日というわたしそのものを。
それでは、語り始めるとしようか。

  (続く)



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