「あの頃かもな、ぼくら、いちばんよかったのは」
とフレデリックは言った。
「そうかもな、ほんとに。あの頃がいちばんよかったよなあ」
とデローリエが言った。
ギュスターヴ・フロベール『感情教育』
空がはげしい雷鳴を轟かせているあいだ
部屋のあかりをみな消して
カーテンを開け放ち
夜空の黒のなかにつぎつぎ走る稲妻に虹彩を向けていた
強いひかりややゝ弱いひかりに
虹彩はいそがしく緊張や弛緩をくりかえし
瞳孔の音楽を奏でていたのだろう
もう三十年も前
大きな進学塾で教えていた頃
あまり出来のよくない或るクラスの夏の講習では
夜7時頃から始まって
9時半まで生徒たちを閉じ込めていなければならなかったが
今夜のようなはげしい雷雨に見舞われて
夏の部活を終えた子たちがびしょ濡れになりながら
わあわあ教室に駆け込んできたことがあった
黒い髪をすっかり濡らし
スポーツシャツも制服のブラウスも透けるほどに濡れて
中三の女の子たちがはじめて陸に上がった水生生物のように興奮し て
土砂降りの中を駆けてきたことを語りあっている
教室はビルの四階にあって
まわりは低い家ばかりだったこともあって
三辺を窓ガラスが囲む教室からは
夏の夜の嵐の雷鳴のかがやきがよく見えた
タオルで濡れた髪や体を拭きながら
たがいに拭きあいながら
授業もそっちのけで窓のほうに寄って
どこに雷が光ったか
次はどこで光るか
いそがしく追い続けながら
ひとときの予期せぬお祭り騒ぎになっている
もともと勉強への熱意の薄い子たちだが
この夜はいっそうのこと勉強どころではなく
かといって教師としては放っておくわけにもいかないものの
よし、ここはしばらく教室のあかりを消して
せっかくの雷鳴のお祭りをみんなで楽しむことにしよう
と私はドア近くに寄ってあかりを消し
さあ、今夜は特別だ、ちょっと雷を見ることにしよう
と不意のナイトショーのはじまりを告げた
わあぁ、と歓声が上がったが
すぐに声は収まってひっそりとなってしまい
どうしたことかとちょっと不安になったが
生徒たちが三方の空に展開される雷鳴のショーに心を奪われて
まるで人生の頂点のひとつの瞬間のように
ほとんど自失して
中三の夏の一夜の光景に見惚れてしまっているらしいとわかった
それから十三年も経った頃
まだ連絡を取りあっていた女の子から
あの夏の夜の教室にいっしょにいた別の子ゆかりちゃんの身に
立てつづけに不幸が重なったと聞き
まだ二十八歳というのに両親を事故で亡くし
弟も自殺で失い
ずっと仲のよかった恋人とも気まずく別れることになってしまって
ゆかりちゃんがあまりにかわいそうだから
このあいだも励ましの飲み会してきたんです
とのことだったが
でもね、あの中三の夏の嵐の教室はよかったよねえ
なんかすごくよかったよねえ
教室のあかりを消しちゃってさ
みんなでしばらく雷を見ていたんだよね
あの時間ってよかったよねえ
いちばん幸せだったかもしれないねえ
とゆかりちゃんは言っていたそうで
そう聞きながら
ちょっと胸に来るものが私にはあったが
そんなことないよ
いちばんの幸せはまだまだこれから来るんだよ
そう伝えておいて
と言いながら
あの時に教室のあかりを消すことにしてよかった
じつはけっこう迷ったのだが
あの時ちょっとした勇気を持てたのはよかった
と
まるで
人生のほんのいくつかの正解の瞬間だったかのように思えて
いまさらながらに
いつまでも
いや、ますます没入していくように
あかりを消した
あの時の
夏の夜の嵐の教室の
私
に
だけ
に
さらに
さらに
なっていく
よう
だった……