宮柊ニの歌集『日本挽歌』は
折口信夫が題名をつけたものだそうだが
こんな歌が入っている
いつの世もあはれにて人は権に随く日本人ハビアンまた葡人沢野忠 庵[i]
知的にも優れ
好奇心旺盛でもあったハビアンや沢野忠庵の
単純とはいえない転向や振舞いが
はたして
宮柊ニの纏めるようなものだったかどうか
ともあれ
いつの世にあっても
人は時の権力の側に随くもの
いつの世にあっても
これは
中国戦線に駆り出されてきた
(…それとも、狩リ出サレテキタ、
(それとも、刈リ出サレテキタ、……?
宮柊ニから
滲み出続けるようだった人間観だろう
もちろん
宮柊ニのことは
日本の昭和の文芸の基礎中の基礎で
あまりに有名なことゆえ
いまさら
思い出すのも
恥ずかしいぐらいだが…
北原白秋の弟子ながら
中国戦線ではただの一兵卒として
戦争のただの歯車として
時には銃を禁じられて敵地に潜入する挺身隊員として
いくさの前線そのものを生き
こんな歌を残した
宮柊ニ
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
俯伏(うつふ)して塹(ざん)に果てしは衣(い)に誌(しる)し いづれも西安洛陽の兵
帯剣の手入れをなしつ血の曇(くもり)落ちねど告ぐべきことにも あらず
こんな人が
ふいに
銃弾も飛び来ず
爆弾も落ちて来なくなった
戦後の日本列島という空間にサラリーマンとなって
あいかわらず
三十一音に文字を装填し続けていくと
夏の花を草々つけぬあをじろく咲きむらがれるさまのしづけさ[ iii]
しばしばもおどろきむかふしづかなる一時刻あり秋深き庭[iv]
尋常にめぐりきたれるこの朝の空気つめたく寒きをよろこぶ[v]
彼の他には誰も見ていない
しかし
聖なるまでにありきたりな
こんな風景と環境を
写し取り
文字の並びの内に再構成していったりする
夏の花や
それらの青白く咲き群がるさまや
秋深き庭や
ふつうにあたり前にやって来ている
朝の空気の冷たさは
はたして
彼が刺したのち音もなく崩折れた敵兵や
うつ伏して果てていた西安洛陽の兵や
拭って落ちない帯剣の血の汚れと
根源的に
違うものだとでも
言い切れるか?
違う
と言っておけば楽だが
本当にそうか?
宮柊ニ自身は
もちろん
そんな疑問はたっぷり過ぎるほど
つねに
持って歩き
座り
仰臥し
また
起き上がったり
していたのではあるが……
毎日の勤務(つとめ)のなかのをりふしに呆然とをるをわが秘密と す[vi]
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