ベルナール・フォクルール[i]の弾く
バッハ『フーガの技法』[ii]を聴きながら
下品さとグロテスクさの技法
というようなことを
考えている
粗く
また
荒くもある
これらの素材から
どのようにコクのある汁が取れるものか
そのようなことを
考えている
古来
下品さとグロテスクさの扱いは
貴族たちの
殊に精神の貴族たちの得意とするところ
そこに
もちろん残酷さも加わるが
いずれにせよ
すこぶる巧みな腕の試される味には
違いがない
フォクルールは演奏に
ストラスブールのブクリエ新教教会のオルガン[iii]を使って いるが
これは18世紀半ばに
ドイツ中部チューリンゲン地方で見られた特殊なオルガンの
忠実な再現だという
完熟した日本のだしのような深くまろやかな音で
たゞ音が鳴らされて
それが伸びていくというだけで
生の意義に触れたかのように思わせられる
その音に浸りながら
下品さとグロテスクさと
そうして残酷さというものについて
それらが醸し出す
えもいわれぬ天上的な味わいについて
考えている
天上はもちろん至上の下品さと
グロテスクさと
残酷さとに満ちていなければならず
それゆえの天上なのだと
考えている
天上の
天という字も意識に入ってくるが
この字がまたおもしろく
大という字の上にいっぽん棒が横たわっていて
つまりは
大の上を抑えて押しつぶし
大を大でなくしている
大の上に抑えのあることを天と見せている
大を完全におちょくっている
字からの連想で
大徳寺開山の大燈国師宗峰妙超が浮かぶ
二十年も河原で乞食行をしたこの人物ならば
下品さとグロテスクさ
残酷さから
どれほどコクのある
しかし澄み切った出し汁を搾り出すだろうかと
まだまだ滓でいっぱいの脳の奥から
わたくしは憬れる
フォクルールはバッハの未完成稿に補筆し
とりあえず完成させて
複数の主題にもとづく対位法楽曲(コントラプンクトゥス)[ iv]の6番目に
コントラプンクトゥス14として演奏している
彼のこの補筆版の前に
バッハ自身の未完成稿版の演奏もしているが
バッハ自身の未完成稿の演奏とフォクルールの補筆版の演奏との間 に
世界の
あらゆるものの
ふいの終わりを悟らせるようなしばしの空白があり
聴くたび
ハッとさせられる
ハッとさせられる
わたくしもわたくしの生を
そこで
おそらく
終わらせてしまう
聴くたびに
なんども
なんども
そこで
おそらく
終わらせてしまう
聴くたびに
なんども
なんども
空白が絶えて
フォクルール版の演奏がはじまる時
ついこのあいだなど
到来物の色とりどりの
なにも語らぬ
こちらなどむろん見もしない
しかし
いくらか濁った目をぼんやりと開いたまゝの
宗峰妙超が見えた
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