2019年9月12日木曜日

「すべての言葉」を我がものとしないうちは、人は生きない。




真実はすべてのなかにある。そして物ごとの本質は、同時に隠れたりあらわれたりしながら、物ごとの外観(うわべ)にひそんでいる。
ジョージ・マクドナルド『リリス』



「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」

このことばがふいに記憶に蘇るので
聖書のこの箇所を見直して
深夜
しばしの時を過ごす

「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
(マタイ414[新共同訳、19871988]

悟りに達していないキリスト者たちが見落とす部分がこの箇所にはある

1        荒野にいるのは三人であること。イエスと御霊と悪魔。四十日四十夜の断食後に御霊が付き添っていなくても、御霊の目は注がれ続けている。悪魔は御霊の認可の元、あるいは承諾の元にイエスを試している。

2        四十日四十夜の断食後の空腹は空腹ではないこと。なにかを腹に入れなければならないような空腹は、四十日四十夜後には発生しない。その時に発生するならば、はるかにはやく発生している。そこに発生しうるのは、四十日四十夜の経過という数の観念が引き込んでくる、概念としての空腹でしかない。空腹の感覚が起こり得るのではないか、という想念の発生である。

3        パンになるように石に命じる必要はない。神の子は空腹を満たすのに、外的食料に頼る必要はない。食後の満足感の現われを念じればよい。ことばでそれを言う必要さえない。ましてや、石というべつの存在になっているものに、パンになれと命じるというのは、もっとも遠回りで非合理な方法である。

4        悪魔はもちろん、イエスが、パンになるよう石に命じる必要がないのを知っている。にもかかわらず、なぜ「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」と言うのか。これは、悪魔が神の御霊のひとりだからである。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」とイエスに言わせるために、悪魔は引き出し役を演じている。つまり、この荒野の誘惑の場面は実際に起こったことではない。イエスと御霊と悪魔という人物を置いて、舞台に上らせ、霊的な教えを物語的に示しただけのことである。主人公はイエスでさえない、というのが新約聖書の最大の要点であり、その観点から読まないかぎりは、霊的階梯の導きの書として読み得ない。

5        「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」ということばにおいては、「人はパンだけで生きるのではなく」は不要であり、これは修飾部にすぎない。「人は、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」と言うだけでよかった。というのも、そもそも、人は生きるのにパンを必要とはしていないからである。人に達していない者のみがパンを必要とする。グルジェフは、ほとんどの人間はみな眠ったままだと言うが、眠ったままの人間は、イエスが言うような意味での「人」ではない。

6        「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」とイエスが言うのは、旧約聖書の申命記83に書いてある、という意味である。これは、エジプトからユダヤ人を救い出したモーゼが行う第二の説教中のことばである。
「あなたの神、主が導かれたこの四十年間の荒れ野の全行程を思い起こしなさい。それは、あなたを苦しめて試み、主の命令を守るかどうかあなたの本心を知るためであった。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもあなたの先祖も知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに教えるためであった。この四十年間、あなたが着ていた衣服は擦り切れず、足が腫れることもなかった。人が自分の息子を鍛えるように、あなたたちの神、主はあなたを鍛えられることを心に留めなさい。あなたの神、主の命令を守り、その道を歩み、主を畏れなさい」(申命記826[この箇所の引用は、フランシスコ会聖書研究所訳(サンパウロ、2011)による]
これは、旧約聖書からの臨機応変な引用によって、イエスの聖書学者としての学力が示されている箇所といえる。いわば、イエスの神学博士審査における口頭試問の一部であり、質問者は悪魔、端でそれに立ち会っている者は御霊である。

7        申命記8を見れば、ユダヤ人が耐えねばならなかった「四十年間」が見出され、これは、マタイによる福音書の「四十日四十夜」に照応するのがわかる。「四十」は「ユダヤ人の荒れ野での全行程」を振り返り、追体験する修行のための数であって、任意の数ではない。修行は「四十」日や「四十」時間や「四十」分でなければならない。

8        マタイによる福音書のこの荒れ野での試みの箇所は、イエスの言動が、旧約聖書にすでに記されている厖大な教えによって裏付けられ正当化されうることを示す、優れて神学学問的な証明箇所である。神学の研究者はそこで止まってもよいし、それをもとに、ユダヤ教とイエスの関係の研究に没入してもよい。しかし、霊的探求者は、人は「神の口から出る一つ一つのことばによ」って生きる、という点だけに注目しておくのでもよい。これは、フランシスコ会の訳によれば、人は「神の口から出るすべての言葉によって生きる」とされる。「すべての言葉」と言われている点は注意が要るだろう。ひとつの言葉ではなく、一部の言葉でもなく、「すべての言葉」。もちろん、存在界にあるすべての物は神の言葉であり、潜在界にある物も同じく神の言葉である。あるものも、ないものも、ありうるものも、ありえたはずのものも、ありえないものも、ありえなかったはずのものも神の言葉であり、注意しよう、人は、それら、「神の口から出るすべての言葉によって生きる」のである。「すべての言葉」を我がものとしないうちは、人は生きない。

心霊の学徒よ、ある深夜のわたくしの思いはこのようなものである。
わたくしの粗い考察が探求の参考となるように。

辞去の挨拶として、使徒行伝から次の箇所を借りて記しておく。

「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」(使徒2032





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