2019年9月28日土曜日

べろべど




今日暫同芳菊酒
明朝應作断蓬飛
王之渙「九月送別」

今日暫く芳菊の酒を同じうす
明朝まさに断蓬となって飛ぶべし
王之渙「九月送別」


ひさしぶりに武久源造のバッハを聴くとやはり良くて
こころのいろいろな地方へ振り戻されるようだった
十代の終わりにテレビで彼のブランデンブルク演奏を聴き
盲目のこの演奏者の圧倒的なパフォーマンスに痺れて
山野楽器にカセットを買いに行ったら彼のはなくて
まだ知らなかったレオンハルトのチェンバロ演奏を買って帰ったら
そこからバッハのチェンバロ世界の大爆発が始まって
その後何十年かはバッハを聴くだけが生甲斐のようになった

イタリア協奏曲はやはりグールドのスポーツカー演奏にやられ
BWV1055あたりはトレヴァー・ピノックが最高の切れ味とわかり
ヴァイオリン協奏曲は野趣に富むアーノンクール演奏が……
などと同曲を何枚も買い集めて日夜聞き続けるうちに
ウォークマンもCDウォークマンも何台も聴き潰していったが……
あれは忘れもしない21年前のある秋の遠方出勤のバスの中で
その時は至上のフリードリヒ・ヴィルヘルム・シュヌアー演奏の
ベートーベンのピアノソナタ第28番と
あの“ハンマークラヴィーア”第29番をくり返し聴いていた時
ふいに「もう戸外にクラシック音楽を持って出る必要はない」と
秋風にやわらかく揺れるコスモスの色のくっきりした動きのように悟り
機材もイヤホンもヘッドホンも大きなバッグに入れて持ち歩くのを
以来すっかりやめてしまった
ショスタコーヴィチや第6番以降のマーラーに没入し始めていて
家ではあいかわらず聴き続けていたばかりか
外国旅行にもCDを何十枚も持っていかないと耐えられないほどだったが
東京やその近郊に出る時にはついになんの音楽機材も持たないとい
何十年のあいだ一度として訪れたことのないこざっぱりした外出姿
ふいになってしまった自分に違和感と到達感を同時に感じた

……私はなにを書いているのか、
あの時も、他のあの瞬間も、すべては過ぎ去り、
もう、目の前には、此処には、なにも残っていないばかりか、
あれらの瞬間をともに生きた人々も、もう死んでいってしまったか、
ちりじりとなって、どこにいるのかもわからなくなって、……

…「もう戸外にクラシック音楽を持って出る必要はない」と悟った
21年前の秋の田園や田舎の道路を行くバスのなかで
周囲の雑音にあわせながらボリュームを上げたり下げたり
片時も注意を怠らずに調節し続けていた時
誰にも見えないながら、自分の内面にとっては大がかりな変貌が
いま訪れてきている!
これからそれはさらに大火災のように広がっていく!
と、どの程度、感じ取っていたものだったか、……

……私はなにを書いているのか、
もう、目の前には、此処には、なにも残っていないようでも、
すべて、過ぎ去って、失われていくものなどないのだと、肌感覚で
はっきりと、日々、確認するようになったいま現在に到ってみて、

……私はなにを書くのか、

ニッポンの80年代以降に瘴気のようにいたるところに染み上がっ
いまだにこの列島の空気を覆い尽くしてしまっている
小さな、あまりに小さな、重要でないものへの
意図的な関心と没入のわざとらしい身振りの蔓延、それによって、
本来マイクを持つ資格さえもないはずの者たちが声高に、
いつまでも延々と下手な演説や田舎の祭りの宴会芸をやり続けているなかで、
とうに潰えた張りぼての全体性のプレゼンに、やはり、
ふたたびは陥らないようにしなければならないとはいうものの、
それでも、あまりといえばあまりに恣意的なつまらないB級趣味の羅列にも
もう、断じて、時間を浪費はしないで、
語るべきことのみを語らねばならない時節!……と内心の奥深いところから
せっつかれて、

……私はなにを書くのか、

「あれは『御前申す』と云ふ岩です」
と、或る所でそんなことを云つた。それから又少し行くと、
「あれは『べろべど』と云ふ岩です」
と云つた。私はどれがべろべどで、どれが御前申すと云ふ岩やら、こはごは谷底を覗いただけではつきり見届けなかつたが、
   (谷崎潤一郎『吉野葛』)

「(上田敏)先生の御家庭ではお子さん達が京都辯を使ふやうにおなりになりはしませんか」と、私は始めて當り障りのない質問の機会を掴んだ。すると先生は、「いや、それだけは厳重に警戒してゐます」と、潔癖らしくキッパリと云はれた。それともう一つ、都会と田舎の風俗の比較が出たときに、「田舎の方が純朴だと云ひますけれども、若い男女の堕落するのは田舎者に多いやうに思ひますが」と云ふと、先生は私を顧みて、「それを私も云ひたかつたんだ」とさも我が意を得たやうに頷かれ、「都会の教養を受けた者の方が社会の裏面を知つてゐるだけに却つて誘惑にかゝらないと云ふのが私の持論なんだ」と云はれた。
  (谷崎潤一郎『青春物語』のうち「敏先生と初対面のこと」)




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