春のひと夜が朝と戯れている
アルフレ・ド・ミュッセ『ポルティア』
Une nuit de printemps joue avec le matin.
Alfred de Musset “Portia”
つい
さっき
ふと思いついて書架に向かい
アルフレ・ド・ミュッセの詩集を手にとってみた
(そういえば
フィリップ・ジャコテPhilippe Jaccottetが2月24日
95歳で死んだのを
思い出し
同じ棚にあるジャコテの詩集も取ろうか
と思ったが
今回は
ついに取らず)
フランス語の古典詩集は
ほとんどすべて持っていて
書架に並べてあるが
ミュッセの詩集は
もう何年も手にしたことがない
それどころか
はずかしながら
正直に告白すれば
ちゃんと読んだことがない
読もうとしたが
どうしても読み進められない
あのスペイン趣味やイタリア趣味にうんざりしてしまう
彼の最初の詩集の冒頭にある長詩Don PaezやPortiaで
もううんざりしてしまう
ヴィニーやユゴーならば読める
面白くないといえば面白くなくもあるあのゴーチエも
まだ読める
ネルヴァルなどはけっこう読みやすい
(彼お得意の神秘主義的意味合いを読み解いていくとなれば別の話だが)
しかしミュッセは
しかしミュッセは
ところが
つい
さっき
ふと思いついて書架に向かい
アルフレ・ド・ミュッセの詩集を手にとってみたら
あ!
と驚いた
読める!
読めるのだ!
彼の語句並べの雰囲気や
フランスロマン主義のひとつの傾向であるスペイン・イタリア趣味が
もう妨げにならない
もともと
詩や文を読む際
内容など一切興味を持たずに
単語から単語への並びぐあいしか見ない読み方をするので
喜怒哀楽だの恋だの愛だの生だの死だの……
さまざまなテーマなど一切外しながら語だけを読むが
いま
そういう読み方に立って見るミュッセの詩句は
くっきりと明晰な言葉づかいが美しく
饒舌に長く語り過ぎているようなところさえ
じつは表現にもどかしさはなく
すこぶる簡潔に語が継がれていっているのがよく見え
ながい時間を経て
はじめて
ミュッセの価値に気づけた気がする
それも
ふいの気まぐれから
ひさしぶりに詩集を手に取ったことで
まるで
後藤明生の小説の構造を支える
予期せぬ突発事に
よりでもしたかのように
詩集の序言で
19世紀文学研究者のパトリック・ベルティエが
「ミュッセの詩は読めたものではない?
「そう言われてきたし
「いまでもそう言われている
と書いていて
彼がこのように書くのも
フローベールがミュッセを馬鹿にし
(ミュッセが青春につきものの神経症を抜け出せなかったために)
ボードレールがミュッセを馬鹿にし
(「洒落者たちにとってのこの師匠、子どもじみた彼の恥知らずな言動…」)
という歴史があるからでもあるが
盛名赫々たるフローベール川やボードレール川を遡って
あるいはそれらから逸れて
やはり偉大な19世紀文学史家のピエール・モローに言わせれば
「老いるすべを知らなかった子ども」であり
「綱渡り芸人としての人生」を送ったミュッセの
150年ほど放擲され続けてきた
文字並べの魅力そのものに
つい
さっき
ふと思いついて書架に向かい
アルフレ・ド・ミュッセの詩集を手にとってみたら
遭遇してしまった!
逢着してしまった!