ひさかたの
天の
香具山
このゆふべ
かすみ
たなびく
春立つらしも
と
『万葉集』巻第十
春雑歌の冒頭にあるが
霞がどのようにかかっているのか
ちゃんと
思い浮かべようとすると
そう容易ではない
香具山から
そう遠くないところにいて
歌っているかのように
うっかり
見て取ってしまいかねないが
ひょっとしたら
遠巻きに山を望んで
歌っているのかもしれない
近くからか
遠くからか
その違いだけでも
霞のありようは
ずいぶんと変わってしまう
香具山に
霞がかかっている……
と
現代語訳することは
多いが
山の下のほうだけにかかっているのか
それとも
もっと上のほうまでか
考え出すと
きりがなくなる
それを近くから見ているのか
遠くから見ているのか
ここから来る
イメージの違いは
じつは
ひどく大きいものになる
そもそも
山の上のほうまで
覆ってしまうような靄の立ちかたを
霞と呼びうるものか
どうか
こちらの「霞」概念まで
問い直されてくる
香具山は
高くない山だが
実際に行って足で登ってみると
小さくもない山で
麓の小さな神社の奥には
自然物としてはあり得ない
四角くはっきりと切り出された巨岩が
御神体として顕われている
実地に何度も行ってみた経験から思うに
おそらく
たくさんの巨岩の組み合わせの上に
土がかけられ
さらに草木が茂るようになったのが
いま見られる香具山で
これは『万葉集』や『古事記』などの
ごくごく近い古代より遙か前に
人為的に造られた
巨岩文化のなごりかと思われる
古墳時代より遙か以前の
古墳のようなものだったのかもしれない
あたりまえのように
読み過ごしてしまいそうになるが
香具山の近くにいても
やや遠巻きに見るにしても
暮れがたに
こうした光景を見ていられるというのは
あの明日香のあたりに住んでいるか
もしくは泊まるところがあるか
どちらかでなければならない
春とはいえ
暮れがたになれば
明日香の宵闇の迫るのははやく
現代においてでさえ
街灯などの少ない場所が多いのだから
『万葉集』以前の時代には
春ながら漆黒の闇に取り巻かれることになる
なんでもないような歌いっぷりだが
明日香に住んでいる地元の人間か
明日香に深く馴染んだ人による
わが地を愛でた歌として読んでおくのが
なによりも大事な気がする
蘇我氏の邸宅があったという
甘樫丘の上からは
香具山は遠巻きによく見えるし
夕暮れの明日香一帯もよく望める
夕暮れがどんどん進んで
夜の闇にすべてが沈んでいくまで
甘樫丘から香具山のほうを眺めたのは
明日香に取り憑かれたことのあったわたしには
一度や二度のことではなかった
陽が沈んでしまってから
まったく街灯のない甘樫丘の小径を下りるのは
なかなか剣呑なのだが
真っ暗な叢林の中をそうして下りながら
わたしはやはり今と同じように
今生などという小さな区切りを超えた
無辺際の把握しがたい霊や魂としての長旅の姿を
搦め手から掴まえようとしていた
よみびと知らず
ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春立つらしも
『万葉集』巻第十 春雑歌 一八一二
0 件のコメント:
コメントを投稿