2021年2月4日木曜日

手の甲舐めの臭さ


 

いろいろな事について短く書いて投稿した古いコメントの類を

Facebookが時々提示してくる

自分にしか見えないらしいが再シェアすれば

またFacebookのタイムラインに載って人目にも触れる

再シェアしなくても消滅はしないものの

何年も前の(場合によっては10年ほど前の)ものなので

検索しようにも面倒になり

まず人目には触れない

必要もなければ面倒でもあるので自分自身でも

検索することはない

 

SNSに書き込むことの大いなる無意味さを

ことさらに言いたいわけではない

むしろFacebookの教育的な配慮に少し感謝したい

と言っておきたい

 

古い自分の書き込みが帯びている臭さを

これでもかというぐらい

このFacebookの再提示システムがよく気づかせてくれるの

世間で話題になったことや

なにかの出来事や事件や

個人的な小さなイベントや椿事について

ごく短く書き込んだ(書き込んでしまった)文が

簡潔さに留意しながらの

もったいぶった

控えめさを装っているかのようでありながらの露出したがりの

これ見よがしさを巧妙に避けようとしているがゆえの

逆のこれ見よがしさに浸っていて

あゝ、ひどく臭い!

と気づく

 

それを恥ずかしいとか

赤面するとか

そのようにはもう思わないほど地上滞在の歳月も経たので

全くの他人事のように

過去の自分の書きつけの醜さを見ていて

こんな反省の機会を与えてくれるFacebookには

やはり有り難いという気持ちが立つ

 

子供の頃

友だちたちとやったちょっとした遊びに

手の甲などを舐めるものがあった

唾が乾いてから嗅ぐと

舐めたところが非常に臭くなる

自分の口の中につねにある唾液がいったん外に出て

乾燥するとこれほどの悪臭を発する

子供ながらにも

厳しい自己発見の瞬間だった

子供どうしで臭いを嗅がせあって

誰の唾液も乾くと同じような臭さを発するとわかったので

同時に

人類の平等さの認識も醸成する貴重な遊びだった

どれほど美しく見える人であれ

慈愛にあふれたやさしい人であれ

素晴らしそうな人であれ

聖く見える人であれ

その人が舐めた手の甲の臭いは同じことになろうから

いったい美や慈愛や素晴らしさや聖性とはなんだろうかと

誰を見ても

子供の頃から思うようになった

今でも人に会うたびにその人の唾液の臭さを思ってしまう

映画に出てくる俳優たちを見ても思う

テレビに出てくるアイドルたちを見ても思う

どこの店に行ってもなにかの施設に行っても思う

この人もこの人も臭いのだろうなと思う

唾液が臭いのだから陰部も肛門ももちろん臭いだろうなと思う

ウォシュレットで洗ったって臭気は落ちないだろうなと思う

バルザックは『風流滑稽譚』の中で人間を糞袋と呼んでいたが

この人もあの人もどの人も所詮は自己移動する糞袋に過ぎない

ちなみに私の極度のキス嫌いはここから来ている

 

自分が書きつけた言葉も

言語域に伸びている手の甲を舐めてみた後のものとしか

私には思えない

誰の書きつけた言葉も乾いた唾液の臭いがしている

世にはクサヤ好きもいるから

乾いた唾液臭好きもたくさん存在することだろう

趣味の問題であるから云々するつもりはない

それもいいのかもしれない

他人の唾液の乾いた臭気をどうこう言うつもりはない

ただ私は

私自身の過去の手の甲舐めから生じた臭気に

どうしても耐えられない

それゆえに言葉を尊重するということがどうしてもできない

 

それだけのことだと言うことにして

この思いは

今日のところは

問題やネタや素材として発展させないでおく





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