八月ではあるが
もう
すっかり秋の庭である
まだ暑さは訪れるだろうが
暑い日中でも
空気の底が
もう
寂しくなっている
庭のむこうの柵の近く
粗い木でこしらえたベンチがあって
座るのに
ちょっと注意を要するが
夕子が座っている
軒の近くには邑子がいて
サルスベリが
茄子の花のような紫の花をつけたのを
あの枝
この枝と
見続けている
わざと同じ音の名をつけた
ふたりの娘と
はやい秋の
この庭にいるのを
わたしは人生の最終幕のように感じる
コオロギが鳴いていて
近くの木には
セミの声もまだ響いている
幸福とは風景であろうか?
そんな脈絡のない問いが浮かんで
詩のようだと思う
問いは
後鳥羽上皇の歌を
これも脈絡なく
思い出す
世の中よいかゞ頼まん飛鳥川きのふの淵ぞ浅瀬白波
詩のようだと思う
脈絡のない
記憶のよみがえりは
思い出した歌には
もちろん
有名な本歌があって
世の中は何かつねなる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる
古今 雑下 読人不知
世の中をいかが頼まんうたかたのあはれはかなき水の泡かな
堀河百首 無常 大江匡房
これらだが
世の中よ
と歌い出した後鳥羽上皇の思いは
世の中なるものへの
定見も
もう
持てなくなった者の
呼びかけとも
詠嘆とも
聞こえ
よ
もいいものだ
と
感じ
させられ
る
夕子が
こちらを見ている
しばらく
見ていておくれ
と
思う
0 件のコメント:
コメントを投稿