2022年12月31日土曜日

形なきところ妙体となり

  

 

住まいの玄関を出ると

しばらくは並木道が続いている

立ち並ぶ木々の間は

かなり広いところもあって

敷石もしていないものの

おのずと小径になっている

家からいくらも行かないうちに

小さな家がいくつか

並木道のわきに散見されるが

それらの家には

小径をたどっていくことになる

 

どの家も本当に小さく

各戸の玄関のドアをあけて

中を覗いたり

入り込んだりすると

一畳ほどのエントランスがあり

そこからみっつか

ふたつの部屋に行ける

部屋はたいてい3畳か

大きくても4畳半ほどで

これでは体を伸ばして寝ることさえ

むずかしいのではないかと思うが

住んでいるのは

ゼッペやロットやパロットら

小人たちなので

かれら住人にとっては

じゅうぶんな広さがある

なにせ身長は60センチ程度で

そんな彼らにとっての3畳や

4畳半というのは

なかなか豪華な広さなのだ

 

特に用事もなければ

もちろん彼らの家を訪れたりはしない

彼らとは誰とも親しいし

いい関わりを持っているが

各人いろいろと用事があるようなので

気を散らすようなことはしたくない

広範囲のことに興味を持っているうえ

たいへんな趣味人たちでもあるので

会いたい時には

テレパシーによる意志配信システムを使って

いつ頃がお手隙かな?と

事前に問い合わせをすることにしている

 

彼らの家に気を向けずに

並木道をまっすぐ行くと小川があり

細い流れなので

思い切って飛べば

向こう岸に難なく渡れてしまうほどなのだが

この細い小川が

じつは遠いピレナン山系から

じかに流れてきているもので

指先で水に触れてみれば

驚くほど冷たい

霊山の集まりであるピレナン山系だけあって

ちょっとした怪我などは

この小川の水を垂らせばだいたい治ってしまう

小人たちはこの川の水を

日ごろの飲み水にしているほどだ

彼らがほぼ永遠の命を保っていられるのも

なるほどと思わされる

もっとも背丈が伸びるような

そんな奇跡は起こしてくれないらしいが

 

小川にはもちろん橋もかかっていて

並木道から東へ少し逸れたところにある

わたしの家からその橋までは

ゆっくり歩いて行って13分ほどなので

時間のない時のちょっとした散歩には

この橋まで歩いて行って

そこからまた戻ってくれば

26分ほど歩いたことになるので

30分以内の散歩コースとして

よく利用したりしている

 

今日も

このあさまだき

橋まで行って

戻ってきたところだ

 

急に

世阿弥の花伝書の文句を

思い出した

 

妙とは

たへなりと

なり

たへなると云っぱ

形なき

姿

なり

形なきところ

妙体

となり





餅がきらい


 

 

餅がきらい

なので

ほとんど食べない

 

正月には

雑煮を食べるのが

習俗に従順なひとびとの常だろうが

20代はじめで

そうした日本習俗を脱けたので

まったく食べない

 

雑煮に餅を入れて食べる

という

あのやりかたも

青年時代まで

 

東京ふうの雑煮は

さっぱりしたしょうゆ味で

あれはあれで

うまかった

とは

思うが

 

餅は

胃酸ではほとんど消化しないので

口の中でよく噛んで

唾液で溶かしてから飲み込まないと

場合によっては

溶けずに胃の中に

残り続けたりするらしい

胃内の温度では

餅は溶けないのだという

そうすると

ひどい時には

胃潰瘍や

胃穿孔が引き起こされる

ちゃんとした

医療関係のネットに出ているくらいなので

注意したほうがいい*

 

正月に

餅を食べないで済んで

あゝよかった

などと思っていると

後から

餅を届けられたりすることがある

そうすると

黴びないように

とりあえず

冷凍庫に入れておく

 

保存食になるのは

事実だから

少しずつ

どうにかして食べないと

いつまでも残り続け

2年間そのまま

3年前のものもある

という仕儀に立ち至る

 

凍った餅を

オーブンで焼くと

けっこうすぐ

プーッと膨らんで

簡単に焼け

それほど手間はかからないし

バターを塗ってみたり

味噌汁に入れてみたりすると

じゅうぶん簡易スナックになるのだが

それでも

冷凍庫内の

この餅のかたまりが

なければなあ

罰当たりなことを

よく

思ってしまう

 

餅にするより

サッと

白米を炊くほうが好きなので

どうして

こう

よけいな手間をかけて

餅なんかにしてしまうんだろう

そこはどうしても

譲れない

 

 

 

 

*CareNet2022/12/29)「餅は胃内で硬くなる?胃に丸餅10個確認された症例」






12月20日から食べはじめた

  

 

おせちが嫌いで

日本の正月が大嫌いで

まわりにも

平気でそう言っているけれど

スーパーで

クリスマス前から

すこしずつ売りはじめる

おせち料理を

ちょこちょこと買ってきては

年越しもしないのに

はやめに食べはじめるのだから

考えようによっては

矛盾もはなはだしいし

うそつきということにも

なるかもしれない

 

今年は

12月20日から

はやくも

伊達巻きや紅白の蒲鉾を

食べはじめた

 

ものはなんでも

はやめに食べはじめる

というのが

江戸っ子の倣いで

年明けには

もう

おせちなんて終えてしまっている

というのが

通ってもんだよ

言っておきたい

 

もっとも

年明けになると

売れ残りのおせちを

値引きして売っていたりするから

伊達巻きあたりは

べつの商品を買い直して

毎日

ちこちこ

薄切りにして

食べ続けるのもいい

 

うちの最寄りのスーパーは

元日と二日は休むが

ちょっと行ったところのスーパーは

年末年始

まったく休みなしだそうなので

元日二日は

散歩ついでに

値引きものを探しに出ても

いい





ヤリイカの卵


 

いつ頃からか

イカが好きになったので

新鮮そうなものが

安く出ていたりすると

かならず買ってきて

ごく簡単に

ペペロンチーノふうに炒めて

食べている

 

赤唐辛子を千切って

輪切りにしたイカに混ぜ込み

あとは

塩とコショウと

オリーブオイルだけ

それ以上の味をつける必要はないし

この程度の簡素なのが

うまい

 

冬至を過ぎてからは

ヤリイカの中に

ゼリー状のものが入っている

卵だと思うが

これがまた

食感をまして

うまい

 

冬のさなかの

ちょっと嬉しい

小さなご馳走だが

ひとによっては

これはもう

春の訪れを告げるもの

と捉えるらしい





ジュワッとおいしい肉汁の垂れてきそうにはない



 

20年ほどは見たことがなかった

年末の番組

レコード大賞うんぬんを

ほぼ

ぜんぶ見てみる

 

時代もかわり

世代も

世代も

世代も

何世代も水泡のごとく流れ去ってしまって

感性も考え方も

どこか遠い異国にふいに流れついて

鄙びたバーで見せられる

古ぼけたテレビの

画像の鮮明でないショーのように

ズレにズレてしまっていて

ポップスというのに

こちらの気を和ませるメロディーや

ことばが

耳に流れてくる感じがすることは

もう

まったく

ない

 

あまりにひどい曲や

歌詞も

いくつか

 

けれども

これが今の時代なのだろう

これが

「今の若い人たち」なのか

思いのなかで

「 」というマスクを

シールドを

ふと

付けてしまったりする

 

たったひとつ

言葉選びや

絡めあわせが粒立っていて

曲載せもとてもよいものがあって

あゝ、これはいいな!

レコード大賞は

これに決まりだな!

もし

ぼくが選ぶんならな

と思った

 

 

その通り

レコード大賞は

その曲に

ちゃぁんと決まった

 

ポップスの現在と

近未来の方向を嗅ぎとる

感性

衰えてないな

 

若者の

流行の先端(の一部とはいえ)

探知する

萎えてないな

 

つまらないことながら

ちょっと

自信

 

けれども

わざと

連続して聴いてみた

あれらの曲

あれが

現代の雰囲気であったり

若者の感性の実像であったりするのなら

そこにあるのは

行き詰まって

方途も定められず

切れ切れに文節を宙に投げたり

単語を吐いてみたり

そんなマインドの

一場の

舞い

ばかり

 

いいことはないな

いいことはないな

 

どんどん

凋落と

衰えとが顕われてくる

ばっかりだな

 

この先

この発言者たちには

この単語配列者たちの

もう

ジンセイ

なんて

呼ぶほどの

ジュワッとおいしい肉汁の

垂れてきそうにはない

タイムラインの

行く末には

 

ぼく

同行せずに

離脱します

あなたがた令和日本人大多数者の

連合艦隊からは

 

さらば!

 

健闘を祈る!







2022年12月27日火曜日

ミラレパ

 

  

ひとつには語句の編集を心得る

ふたつには問いへの答えを心得る

みっつには心の意味自体を心得る

これが心得る三種である

  ミラレパ 『十万歌謡』

 


 

なんやかや

自由詩形を使って

ものを書くのは

最強のディベート手段だ

確信している

 

(論理と非論理と

ぐだぐだの

感情論と

妄想と幻想と

生硬な専門用語まで

ふりかけして

語り続けられる場は

ここしかない)

 

長い不遇の時代を経て

ふたたび

詩形式の時代が戻ってきている

確信している

 

(ブログや

SNSの書き込みを見れば

もはや

たいていは

自由詩形になっている)

 

いざとなれば

定型詩に

すぐに撤退できる

 

(朔太郎のように)

 

一行で済ますことも

できる

 

(安西冬衛のように)

 

しかし

詩ってのは

短くって

キリッとしてて

真理!って感じで

格調高くって

言葉を切り詰めてて

ってんじゃないと

いかんだろう?

 

(そういうの

作りたかったら

どうぞ

おひとりで

あなたが逆立ちしたって

宙返りしたって

コバンザメのような

後世のプチ学者や批評家による

担がれぶりという点では

追いつけない

マラルメさんの詩だって

実際は

そこそこ

長いよ)

 

人間のうちで

もの書く人間は

とにかく

死ぬまでワギャワギャ

書き続ける

んだわ

 

なんだ

あいつのグタグタ書きは?

グチャグチャ書きは?

 

そう見られながら

書き続ける

んだわ

 

もとより

自由詩形で書くべきことなんて

ひとつも

これっぽっちも

なぁんにも

ないんだからね

 

だから

なんやかや

自由詩形を使って

ものを書くのは

最強の意志の修行だ

 

喩えていえば

ミラレパの

意味と意義と価値を超越した

苦行だ