2022年12月11日日曜日

断言ぎらい


 

ものを書くというのは惨めなものだが

それでも

生きるに値する唯一のもの

ギュスターヴ・フロベール

 

 


 

詩に興味はなかったが

高校生の頃に

ボードレールや

萩原朔太郎に熱中してからは

ランボーかぶれになるのに

時間はかからなかった

 

じぶんで詩を書こうとは

思わなかったし

そもそもランボー以上のものは

よほどの鬼才でなければ

書きようがない

アポリネールの関節はずしの芸当や

エズラ・パウンドのグレぐあいは

ちょっとは面白かったとはいえ

人生時間を打ち込む作業とは

とてもではないが思えなかった

 

詩は短さに命があるから

どうしてもキレのいい断言が見栄となる

ぼくは断言が嫌いだし

文芸の至高の師であるフローベールは

その窮極の批判精神で

断言的言動を否定していたし

広津和郎が諄々と説いていたように

なにかといえばすぐに極端へ

ファシズムへ

軍国主義へ

雪崩れる傾向のあった

ニッポン的詩的精神に抵抗する

散文精神こそ現代人の唯一の

言語活動の場と思えていたので

ぐだぐだダラダラと

どこまでも散文を継ぎ穂して

語り続けていく散文こそが

言葉を使うフィールドであると思った

 

詩を書くなどとは望んでいなかったから

今でも詩など書かないし

書いたこともまったくなく

ただ自由詩形式を使いながら

その中に単語を充填してみているだけだが

(このように認識せず

このように語らない「詩人」なるものは

ナニサマのつもりかと

端から相手にはしない、もちろん…)

それでも他人というのは

外面のかたちしか見ないものだから

まるで詩でも書き続けているように

どうしても見えてしまうのだろう

 

それはそれで致しかたないだろうが

詩の断言性はやはり大嫌いであり

不倶戴天の敵とするところだとは

ときどき表明しておきたい





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