市川崑の『こころ』(1955)を見たら
安井昌二の演じる日置の老父が
田舎の大きな立派な家で
病臥している光景が何度か出てきた
富農か庄屋の家のような
大きな部屋がいくつもある
風通しのよい家で
夏など
開け放っておけば
家の中は庭と繋がるし
遠くには山並みも望まれる
庭に面した広い部屋に
老父は病臥していて
そのようにして
日々衰弱していくさまは
それはそれで幸せそうで
しずかで
安楽なように見える
老いた者や病んだ者が
このような大きな家に寝て
気候のいい時分や
暖かい日などには
戸を開け放って過ごすというのは
人生の終末にあたっての
もっとも望まれるべき姿だろう
部屋と部屋の間の戸を開ければ
家じゅうが繋がるのだから
家族の生活の一部として
病臥する者も位置を得続ける
こういう家屋を失い
こういう生活のしかたを
保たなかったことで
日本の病人と老人は
孤絶を強いられることになった
このことについては
学生の頃から不愉快に思い
改変の方途を考え続けてきたが
端的に言えば大家族と
大家屋を放棄した時点で
日本社会は終わったと結論したい
ひとりや数人で生きる
密閉型の小さな家屋というのは
生活に関わるすべてを
自分ひとりで行える体力がある者にのみ
かろうじて適している特殊環境で
買い物にさえ歩いて行きづらくなったら
密閉型の家屋はただちに
拷問部屋のようなものに変わっていく
現代人はたいてい
自らが利口者だと自認しているが
期限付きのバカンスを支える身体条件が
いつまでも続くものと思って
自動車がないと買い物さえできないような
商店街から遠い住宅地に家を買ったり
家の中に階段をいくつも設けたりするのは
やはりよほどの愚か者だと
自認し直さないといけなかったはずだろう
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