2025年1月20日月曜日

どれも源なるものの顕われ

 

 

 

何をやってもよい、そこにおまえが在るだけでよい

 中上健次『千年の愉楽』

 

 

 

 

日本ではどこでも

御利益を求めての神仏祈願が蔓延している

新年になるといっそう目につく

 

宮司も僧も

御利益を求めての参拝や祈りが正しくないのは知っているのに

(知らないならば彼らは本物の行者ではない)

参拝者たちには平気で御利益のための祈りを認めている

ほんとうはここに看過すべからざる矛盾があって

これを放置しているのは

日本における霊性の汚れを増す重大事ではある

 

西田幾多郎の『善の研究』に

こうある

 

現世利益の為に神に祈る如きはいふに及ばず、徒らに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。されば歎異鈔にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」といつてある。又基督教に於てもかの単に神助を頼み、神罰を恐れるといふ如きは真の基督教ではない。此等は凡て利己心の変形にすぎないのである。加之(しかのみならず)、余は現時多くの人のいふ如き宗教は自己の安心の為であるといふことすら誤って居るのではないかと思ふ。かかる考をもつて居るから、進取活動の気象を滅却して少慾無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得る様にもなるのである。我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない。安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能はざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的其者であつて、決して他の手段とすべき者ではないのである。

(『善の研究』第四編宗教、第一章宗教的要求)

 

安心さえ求めてはならない

往生も求めてもならない

それらは利己心の変形だから

と西田幾多郎は言っていて

ならばなんのために祈るのかといえば

はっきりとは言っていないが

ただ祈るためにだけ祈る

ということになろう

道元の場合ははっきりと

「仏法のために仏法を修する」

と言ったが

西田幾多郎の場合

言い方ばかりは少し穏やかである

 

しかし「祈る」ということは

手をあわせて祈りのかたちを作り

なにか黙想したり

私意識を薄めたりすることだけではなく

物質界にただ物質として在ることだけでも「祈り」なので

ほんとうは非常に広い意味で捉えないといけない

動いていても止まっていてもよい

ただこの世に物質としての身をもって在れば

呼吸をしていれば

水を飲み

あれこれの物を食べ

あるいは食べず

暑さ寒さをそのつど感じ

寝転がり

排泄すれば

それがすでに「祈り」なのであって

難しく大仰なこととして捉えようとすることはない

最大限に巨大壮大な宇宙意識が

ちっぽけな人間存在を見つめたらどう思うか

宇宙意識のその目となって

呼吸し飲食し排泄する人間を捉える気持ちにみずからなるのが

この物質界では重要なのだが

しかしこのことは忘れられがちになるので

すでに自分は祈りなのであったと気づくことが

ときどきは必要となる

 

だから「宗教」という言葉を使う必要もない

この言葉を持ち出した瞬間に

印象や思考はあらぬかたへ歪み出し

よほどの厳密な定義をして使わないと

ろくなことにならない

しかし忙しい人界にある身には

ひとつひとつの用語に厳密な定義をしている暇はない

ならば操作しづらい単語は避けるべきだ

「宗教」という語の使用は極力避けるに越したことはない

 

通俗な「宗教」的想念に泳がされるのでなく

より鋭く本質的に宗教的な思考をする人びとに

共通して感得され認識されているであろうことは

周囲の世界現象のすべても

自己の肉体の現象のすべても

内的な諸感情や思念のすべても

どれも源なるものの顕われということだ

 

その源が俗世ではぎこちなく神や仏や天や霊と呼ばれがちで

どういう単語で呼ばれようとも

みずからの出てきた不可視の境域であり

再び帰っていくであろう境域であって

無限の力と智慧と価値が満ちているところでもあり

真の故郷と真の目的地とが合わさったところ

全的な我がつねに最高度に開花しているところ

などという性質は共通している

 

物質と肉体と心理のしがらみというのは重く

わずらわしく

うっとうしく

汚水に濡れきった着衣のように行動の自由を奪う

不愉快きわまりないものなので

本質的な思考をする人たちまでもが

しばしば誤ってしまいがちになるが

まわりに見え聞こえ触れうる現象界というのは

いかなる時であれ

源なるものの顕われであり

源から伸びた蔓の繁茂の一端であり

思いもしなかった開花のひとつなのだから

みずからの出てきた不可視の境域そのものであり

再び帰っていくであろう境域そのものであり

無限の力と智慧と価値そのものであり

真の故郷と真の目的地そのものであり

全的な我がつねに最高度に開花している瞬間であることを

忘れてはならない

 

 




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