2025年1月17日金曜日

今という瞬間の極まりを

 

 

 

松も時なり。

竹も時なり。

時は飛去するとのみ解会すべからず。

飛去は時の能とのみは学すべからず。

時もし飛去に一任せば、間隙ありぬべし。

有時の道を経聞せざるは、すぎぬるとのみ学するによりてなり。

   道元 『正法眼蔵』有時

 

 

 

 

 

生の渦中にあって

もっとも障碍となるものに

自己の生を記録したいという気持ちや

自己の生を自身で見たいという欲求がある

 

これらは

近代の都市型生活のなかでは

称揚さえされ

文化的行為と目されている

 

しかし

現実には

これらが肝心の生そのものを

きわめて大きく損なう

 

風光明媚な風景や

壮大な自然の景観の前で

下手な素人写真を数枚撮って

また観光バスへと戻っていく人びとは

だいぶ前から発生していたが

現代では

そこで自撮りして

風景と自分の顔を写真や動画に共存させて

そそくさと移動していく

 

風景の前で言葉を失って

しばらく

呆然と佇んでしまう

という豊かさは

積極的に排除されていっている

 

記録したいとか

なにかを自分の鏡としたい

という欲求は

なるほど

人間意識には根源的なものであろうから

これを無視するわけにも

いかない

 

そこで

その瞬間のエネルギーと

価値と

潜在力を

最大限に生かしたまま

記録し

鏡とするには

どうしたらいいか

と考えることになる

 

おそらく

なんのメディアも用いず

なんら物理的な記録手段も用いずに

その瞬間というもの自身に

すべてを記録し

その瞬間そのものを

鏡とする

のが

よいだろう

 

神秘主義的実践行や

禅などが

今を全的に生きよ

と勧めるのも

同じことを指している

 

今という瞬間の極まりを

今そのものに記録し切るには

今を全き生き方で使い尽くすしかない

 

今が強度に今となり

今以外の自分が消滅し尽くし

今に自分が成り切れば

今は永遠に今であり続けるだろう

 

失われることなく

死ぬことなく

生き続ける記録とは

このような今が実現された時のみ

発生するだろう






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