Je vous salue Marie, pleine de grâce ;
Le Seigneur est avec vous.
Vous êtes bénie entre toutes les femmes
Et Jésus, le fruit de vos entrailles, est béni.
Sainte Marie, Mère de Dieu,
Priez pour nous pauvres pécheurs,
Maintenant et à l’heure de notre mort.
Amen
人界は
表面上は自然界内に展開し
自然界は物質界内に展開していて
それらはみな
存在界内に展開しているかのように見られるが
存在は本性上変転し続けるので
常時不在でもある
在ることは無いことであり
無いからこそ在るが
この運動の中に人として在るかのような感覚は
いったいどのようなことであるか?
どのようにすれば
この存在=無を認識し尽くせるか?
そして無をみずからそのものと成せるか?
このような問いに駆られる者には
道元の数々の鋭い導きの中でも
「無常迅速」や「生死事大」の登場するこの一節は
最も印象深い
示して云く、無常迅速なり。生死事大なり。
且(しばら)く存命の際(あい)だ、業を修し学を好まば、
只仏道を行じ仏法を学すべきなり。
文筆詩歌等其の詮なき事なれば捨(すつ)べき道理なり。
仏法を学し仏道を修するにも、猶ほ多般を兼学すべからず。
況(いわん)や教家の顕密の聖教、一向にさしおくべきなり。
仏祖の言語すら多般を好み学すべからず。
一事を専らにせんすら、鈍根劣器の者はかなふべからず。
況(いわん)や多事を兼て心操をととのへざらんは不可なり。
(『正法眼蔵随聞記』第一の十一)
人生は無常迅速であり
生死のことだけが重要課題なのだから
仏道のみを行じ
仏法のみを学ぶべきだ
と道元はいう
そして
文筆詩歌等の無駄事は捨てよ
と厳しく説く
仏道を修するにしても
いろいろと多方面のことを学んではいけない
ましてや
教学仏教の顕教も密教もすべて放っておくべきだ
仏陀の言葉さえもあれこれ学んではいけない
と説く
ひとつのことさえ
能力の劣った者はうまくできないのだから
多くのことをやって精神を整えることなどできない
と説く
霊と魂の修行者たちには当たり前の心得だが
このようにはっきりと言われると
やはりハッとさせられる
神霊修行者たちも
どうしても文字を読んだり
文字を書いたりせざるを得ないが
そうすると
自分が用いる言語の運用法に親しむことになり
いつのまにか
各種の多量な詩歌散文に馴染むことにもなり
どこまでも「詮なき事」でしかない「文筆詩歌等」に
あたかも価値を認めてでもいるかのような
素振りを見せてしまうこともある
それらの領域は
あくまで方便であって
まったく認めていないということを
本人が深く認識しているのでないと流されがちになる
ここのところを
時どき厳しく戻す力があるのが
道元たち
真性の禅者たちの残した言葉の効用といえる
顕教も密教もすべて放っておき
仏陀の言葉さえ学ぶな
というのは
禅者ならではの強烈な教えだが
これは
仏道が
どこにもいつでも
普遍的に存在し
つねに満ちていると知る
道元ならではの言葉である
彼にとっては
仏道は
存在と無そのものであり
世界そのものだから
特別のかたちに表象した顕教や密教に頼る必要はない
今と此処そのものが仏道なのであり
だからこそ
ただ座れ
という教えになる
とはいえ
こういう彼の教えも言語によるのであり
彼の周囲にいて彼を見ていた弟子たちには
彼の姿という表象が導きとなったのだから
顕教や密教という言語と表象の体系を許容しても
そこはかまわないのではないか
とも思われる
このような道元には
カトリックでのマリアへの祈りが
Je vous salue Marie, pleine de grâce
(あなたに敬意を表します。恩寵に満ちたお方)
と表するように
高度の師に向けて示すにふさわしい敬意を表したいが
わたしは仏教徒ではないし
仏道を行く者でもない
あらゆる教と道なしに
あらゆるところで存在と無をわが身とする者が
わたしである
多くの宗教の神秘主義者たちと違って
「今」と「此処」にも縛られない
「今」と「此処」はどこまでも言葉であり
概念であり
さらには不確実な感触でしかない
それらを楽しんでもよいが
それらにすがってはならない
イエスは
「私に繋がっていなさい
そうすれば私もあなたに繋がっている」
(ヨハネによる福音書15-4)
と説いたが
わたしには繋がる必要もない
地上のあらゆるものはわたしであり
あらゆる時がわたしであり
わたしはあなたがたそのものだからである
わたしは在ることであり無である
すなわち
宇宙のどこにも見出される
わたしは普段は言わず
書かず
伝えず
教えず
導かないが
もしわたしが
たまさか
さらに言うならば
「無常迅速なり。生死事大なり」という道元の言葉も
不用であるという
時はなく
進まず
速度はなく
焦ったり努めたりして学ぶべきものは
ないからである
生死はもともとない
大事なものはない
大事なものと大事でないものとの区別はない
区別があると見るなら
その判断者は差別界にいるのである
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