2025年1月31日金曜日

「私」の不在証明

 

 

 

小津安二郎の映画では

作中人物が

カメラにむかってしゃべることがある

 

その点について

観客であるこちらも

映画のなかに引き込まれるようだ

と言ったり

映画の外のこちらに

しゃべってくれているようだ

と言うひともいる

 

ちがう

 

作中人物は

あくまで

べつの作中人物にむかって

しゃべっているので

映画の外にいる観客に

しゃべっているのではない

 

つまり

観客であるこちらは

作中人物によって発話対象として認められているかのようでも

じつは作中人物において「私」を失っている

観客である「私」は存在を認められていないのである

 

作中人物のおしゃべりを受けるカメラは

もちろん観客ではないし

「私」ではない

カメラは「私」の無視される構造そのものであり

作中人物の意識に「私」は存在せず

もちろん映画に「私」は在りえようもない

 

映画を見ることは「私」の不在を見せつけられることであり

さらにいえば

映画は「私」の不在証明だ

 

 



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